現実感の喪失/ひと肌の温かみ/熱のある人

Posted at 11/04/01

昨日から今日に午前中にかけて忙しすぎて全然他のことを考えられない状態だったのだけど、午後になってから少しずつ余裕が出て来て久しぶり(という感じ)でツイッターを見たら原発のことについてかなり議論になっていて、とくに原子炉格納容器が無事なのか、それともそこからすでに核燃料が漏れ始めているのかについては相当重大なことだと思うのだが、それに関しての公式なアナウンスがない。忙しくなると私は情報のスイッチを無意識のうちにオフにしてしまうので、今進行中のさまざまな事態に対する現実感とか現場感を喪失してしまい、自分がどこにいるのか分からなくなってしまう時がある。今ツイッターを読んでいてそういう気分に陥った。

東北の被災地の放送、特に民放の番組には非難もあるけれども、高校の音楽の先生が津波にやられた楽器を瓦礫の山から救い出して、どれか一つでも使えるものがあれば、と言っているのにはうるっときた。生徒も、「また先生と頑張りたい」と言っていて、ああ、こんな時こそ音楽が心の力になるんだなあと改めて思った。そういう無数のエピソードを拾う力がやはりテレビやマスコミにはあるわけで、やっぱりこういうものはただばかにしたものではないなと思う。「正確な情報」や「再建に向けての公論」は私の中でもNHK頼みではあるが、こうした人肌の温かみのあるエピソードを伝えるのはやはり民放の力ではないかと思った。いやなのは変なお涙ちょうだいの演出であって、そんなことをしなくても十分伝わるものはある。というか、そう言うのに骨がらみに毒されている放送関係者も多いのだろうけど、そういう人ばかりではないんだなということをこの番組を見て思った。

40歳からの適応力 (扶桑社新書)
羽生善治
扶桑社


午後、本屋に出かけて雑誌やマンガや書籍を見て回る。結局、羽生善治『40歳からの適応力』(扶桑社新書、2011)を買った。私は羽生氏の本はかなり買っているが、自分を振り返るのに適していることが多い。将棋という一つのしっかりした中心軸を持って前人未到の領域に入ろうとしている人の人生に対する感じ方のようなものは、ある意味論語の而立や不惑について書かれた一節と同じような重みを感じることがある。

昨日の朝、自室に本棚を一つ入れて、積んであった本を本棚に並べてみると、今年買った多くの本は読みかけになっていることに気がついた。最後まで読み切る力が落ちているともいえるし、最後まで読み切りたいような本を選ぶ力が落ちているともいえる。いずれにしてもちょっと中途半端な状態を感じて、少し哀しかった。

長野県の方の自室には、ジブリや宮崎駿関係の本が多くなってきている。宮崎駿の熱さのようなものが、自分を揺り動かすところが大きいんだなと思う。そういえばジブリとは、もともとghibliというイタリア語?のサハラ砂漠に吹く熱風という意味だと言うから、もともと熱のある集団なんだなと思う。私はやはり(私だけじゃないだろうけど)そういう熱に魅かれるところがあるなと思う。ヤンキー先生とかもなるほどと思う熱さもあるが、なんだか危ういところがあると瀬戸内寂聴が言うように、熱ければいいというものではないのだけど、そういう作品を作り続ける熱さが冷めないすごさがこの集団にはあるなと思う。

何となく静かに物思いに耽りたい気分だが、まあそれも一瞬なんだろう。

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by Luke Peterson

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