転回

Posted at 11/02/28

ここの所なかなかブログが書けない。それは、どうも忙しいからだけではない。自分の中で、何かが転回しつつあるからだ。

この『Feel in my bones』を書き始めたのは2005年、もうすぐ6年というところなのだけど、その前の日記『第3の私』を書き始めたのは1999年だった。書いている内容は最初はコラム的なことを書いていたけれども、『第3の私』の途中頃から書かずにはいられない表現衝動のようなものに突き動かされて書いてきた。自分の経験したこと、読んだもの。頭の中に浮かんだこと。そういうことを時に自分でもなぜと思うくらい詳しく書き続けた。

1999年、私は10年勤めた職場をやめた。前年には離婚も経験した。次の仕事には就かず、何をしたいのか考えようと思っていた。いろいろなことを試したいと思っていた。その中のひとつがネットで、いろいろないきさつから「日記猿人」を知り、日記的な日記とコラム的な『第3の私』の二つを登録して、ネットで文章を読んでもらう経験を始めた。最初の頃は読んでもらうことを意識した文章を書いていたのだが、当時本当に書きたいのはそういう文章ではなかった。自分の心の中にあるどうしようもないものをとにかくぶつけたい、そういう表現衝動を誰かに読んでもらいたいと言うのが本音だった。何度も書くのを中断したり、でもやはりそういう衝動はやみがたく、また書き始めたりした。ありがたいことに多くの方に読んでいただき、日記猿人が日記才人になり、休止したあともテキスト庵を通じて、また2008年以降はツイッターを通じても多いときには一日平均500アクセスを越える方々に読んで頂いて来た。

今思うと、いろいろな意味づけを付与してはいたけれども、この日記やブログを書き続けたことの自分にとって一番大きな意味は、書くことによる、また読んでいただくことによる自己治癒のプロセスであった。

この10年間、私は「自分のありか」を捜していて、これが本当の自分だろうか、いや、違う、といつも彷徨い続けていた。就職していた10年間の始まる前には脾弱ながらも確かにあった自分がどこに行ってしまったのか分からなくなっていた。その「自分のありか」が10年を経て、ようやく見えてきたのだ。

もともと私は他人志向が強いというか、受身な部分がかなりある性格ではあったのだけど、それでももちろん能動的な部分も積極的な部分もたくさん持っていた。1990年代後半、いろいろなことがあって、その部分が徹底的に傷つき続けた。古くは中学生のころから、受身の被害者感情のようなものが生じていたのだけれども、90年代後半にはその部分が異様に拡大し、自分でコントロールできないくらいになってしまっていた。職場では重要な仕事を任されてはいたが、自分は理解されていないという被害者意識は大きくなるばかりだった。あの頃、「火炎放射器ですべてを焼き尽くしたい」という感情さえ持っていた。幸いそんなことを実行するほど短絡的ではなかったけれども、外に吐き出されないだけ自分を深く傷つけ続けていた。その頃から、理解者・同情者を求めて咆哮しつづけ、彷徨しつづけていたのだなと思う。

今思えば、それは自分に受身の姿勢を強い続けた報いだったのだろう。正直、完全に自分を見失った。精神的な部分はずいぶん内部破壊があったように思うが、身体的にもばらばらになりそうな感じが続いた。結局、自分の心と身体を守るために受身の殻の中に、被害者意識の分厚い殻のなかに閉じこもってしまっていて、そのことさえ自分でもわからないようになっていたようだ。

何をやりたいのか全然わからないようになっていた。今日友人と話して言われたのだけど、何をやりたいのか考えようとしたら気持ち悪くなった、とある時期の私は言っていたらしい。もう自分では忘れてしまったが、その感覚は今でも想像できる。やりたいことなど考えてはならないという強い規制が自分に働いていたことはおぼろげながら覚えている。

いくつかの段階を経て――大きく前に向いたきっかけはキャメロンの『ずっとやりたかったことを、やりなさい』のレッスンをなるべく忠実に実行したことだろう。そのとき始めたモーニングページは今も書き続けていて、96冊目になっている――だいぶ自分を取りもどしては来た。小説も書きはじめた最初の頃の作品はずいぶん暗い、固い内容のものだったり、うまく焦点の定まらないものを書き続けていたけれども、昨年の後半に書いた二作品はようやく前を向いた明るいものになってきていた。しかし年末からこの二月の半ばにかけて、何を書きたいのか、何を書くべきなのか、また分からない状態になっていた。

この状態を再び乗り越えるきっかけになったのが、70年代前半生まれの批評家たちの作品を読んだことだった。佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』と大澤信亮『神的批評』である。佐々木の作品は自分の中の創作と思考・思索の分裂のようなものを結びつける働きをしてくれたように思うし、大澤の作品は、宮澤賢治という自分にとっての巨人を描くことで眠っていた、あるいは受動性=被害者意識の影にあった自分の能動性、ないしは「加害者としての自分」を目覚めさせてくれた。自分は被害者であると思い続けていたけれども、自分は加害者でもあるという当たり前の、しかし痛切な事実を、過剰な賢治の倫理意識を強烈に照射することで――ある種の放射線治療のようだ――私の奥底から目覚めさせてくれた。自分がどんなにろくでもない、取り返しのつかないたくさんの罪を冒してきた人間かという思いが痛切に湧き上がってきて、そこに血まみれの能動的な自分がいることを否応なく思い知らされたのだ。

また柄谷行人に対する批判の中で、後期の――精神を病んだ時期の後の――彼の言説に現れた神秘主義や、決定的な自己批評の欠如について読んでいるうち、この血まみれの自分を意識する自分の意識こそが自己批評なのだということに気づいたし、自分がわりあい神秘主義に対してはドライであることも思い出したし、かといってアートマンとブラフマンの一致のようなことは案外実感として持っていることなどを意識したりすることが出来た。

そんなこんなをしているうちに、私は能動性を取りもどした。それとともに、あの書かずにはいられない表現衝動のようなものも消えていることに気がついたのだ。

書くということ自体は、私は一生続けるだろう。「書くということは生きるということに等しい」ということが変わることはないだろう。しかし、自分の中にある強暴な表現衝動に突き動かされてありとあらゆることを書き続け、読んでもらわなければ気がすまないという状態からは脱したように思う。思えばその表現衝動は、受身の被害者意識に押しつぶされていた私の能動性の激しい痛みの現れであり、うめきであり、叫びであったのだ。

だから今後、このブログに書くことは、今までとは違ったものになってくるだろう。そして、今までのように毎日毎日膨大なものを書き続けるという形ではなくなるだろう。場合によっては、更新頻度も極めて低下するかもしれない。今日は、そういうことを一度は書かなければならないと思って、更新頻度が下がるかもしれないよということを告知するつもりで書き始めたのだけど、えらい騒ぎになってしまった。

だから、このブログでこういう書き方をするのは、これが最後かもしれない。

長い間、このような表現に付き合っていただいてありがとうございました。本当に、心から感謝しています。

そしてこれから、どういう表現になるか、どういう頻度で更新するか、またいつまでこのブログを続けるか、あるいは新しいものを始めるか、全然白紙なのですが、またお付き合いいただければこんな嬉しいことはありません。

それでは皆さん、おやすみなさい。よい夢を。

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