中国語の飛び交う銀座/美の象徴として描かれた少女の先にあるもの

Posted at 11/02/08

昨日。『バルテュスの優雅な生活』(新潮社とんぼの本、2005)と中村珍『羣青』上中(小学館IKKIコミックス、2010-11)を読了。そんなこんなをしているうちに仕事上のことで嬉しい電話が。すごく盛り上がる。逆に言えば、一つの仕事の終わりなのだけど。祝福。

バルテュスの優雅な生活 (とんぼの本)
節子・クロソフスカ・ド・ローラ,夏目 典子
新潮社

バルテュスを読みながら、よく分からないところをネットで調べていたら松岡正剛が『千夜千冊』でバルテュス論を展開していて、これがとても面白いし参考になった。今まで松岡正剛の書いたもので面白いと思ったことはほとんどなかったのだけど、この記述は違う。逆に言えば、この人の持ち味というのはむしろこういうところ、アートと超越性の接点みたいなところの解読にあるのかもしれないと思った。

いろいろなことを考えているうちに昼下がりも過ぎて行き、とりあえず出かける。いいことがあったので足取りが軽かったのだが、地下鉄に乗ろうと改札を通り過ぎたときに、あるところで大きな失敗をしていたことに気づいて愕然。いや、そんな大袈裟なことではないんだけど本当は。しかし馬鹿馬鹿しい失敗なのでそんなことでかなり落ち込んでしまった。上がり下がりが激しい。

そのまま銀座に行ってまずブックファーストに行ったのだが、どうも自分の落ちた気分との齟齬を感じ、(欲しい物もなかったし)街に出る。銀座の町はなぜかそこらじゅうで中国語が飛び交っていて、なんだかめげてくる。銀座には銀座の雰囲気というものがあるから、どうもそれが損なわれるような感じがして、ちょっとなあと思ったのだった。あとで気づいたのだが、今は春節(旧正月)の休暇でたくさんの中国人が観光に来ているのだ。だからちょっと雰囲気的には特別なんだろう。若いころフランスに行って、どこに行っても日本語が聞こえてきてちょっと嫌になったルーブル美術館の記憶を思い出した。あのころはまだ日本が上り調子、バブルの前の時期だった。今成熟した日本の都会に成長しつつある国から多くの観光客が来るのは当然といえば当然なんだ。日本は前を見て、つまりは欧米の方を見て歩いてきたのだけど、気がつくとすぐ後に、あるいはもっと近いところに中国やアジアが来ている。落ち込んでいるときというのは既知の構図の中に沈潜したいからそういうのをすごく邪魔に感じたのだけど、本当にアジアはもうそこまで来ている。10数年前にそこらじゅうにイラン人やパキスタン人がいた時期があったが、あれともまた違う。日本はこれからどうしていくのか、本当に考えなければならない時期なんだろうなと思う。

ショパン:ピアノ小品集
アシュケナージ(ウラジミール)
ポリドール

山野楽器でアシュケナージのショパンのピアノ小品集を買い、木村屋でカンパーニュを買う。ピアノはどうもきれぎれのまとまりのない作品群という感じだった。木村屋のカンパーニュは初めて食べて見たが、なんかバゲットとどこが違うのかという感じ。カンパーニュというのはもっと野性的なちょっと固い感じがいいと思うのだけど、なんか上品でやわらかい。値段の割りに量はあるなと思ったけど。

日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食料自給率 (講談社プラスアルファ新書)
浅川 芳裕
講談社

教文館に行って本を物色。あまり買う当てのあるものがなく、なんとなく以前見て気になっていた浅川芳裕『日本は世界第5位の農業大国』(講談社+α新書、2010)を買う。生産額でみると日本の農業は世界第5位で農業所得も高いという話。少しお金が足りないなと思って一度外にでて伊東屋の向こう側にあるビルの3階の郵便局へ行ってお金をおろし、結局また教文館に戻ってまた本を物色し、野町啓『学術都市アレクサンドリア』(講談社学術文庫、2009)を買った。これはプトレマイオス朝時代のヘレニズム世界の学術の中心エジプトのアレクサンドリアに関する本。どちらも小耳に挟んだことはあっても実はその実態はよく知らないということについて書かれた本棚と思ったので買ってみた。創作にプラスになるかどうかはともかく、知っておきたい感じがすることについて。

学術都市アレクサンドリア (講談社学術文庫)
野町 啓
講談社

四階に上って教文館カフェでキャラメルポワールと珈琲。珈琲を飲みながらちょっと胃がもたれたなと感じる。注文するときに少し躊躇したのが当たっていた。他のものを頼めばよかったのだが。しばらく夜景を見て外に出、松屋の地下で夕食の買い物をして帰宅。

またバルテュスについて調べたりしていたら、魅力的な絵(自作らしい)がたくさん掲載されたブログを見つけたり。はてなアンテナに登録。

聖少女 (新潮文庫)
倉橋 由美子
新潮社

そこらじゅう調べていたのでどこで見つけたのか忘れたが、バルテュスに関連して倉橋由美子『聖少女』への言及があり、じつはこれは20数年前に昭和40年刊の単行本を買ったのに読んでいなかったので、本棚の底から引っ張り出してきて読むことにした。

バルテュスはすごい。絵というか、画家の世界に沈潜したのはすごく久しぶりのような気がする。四谷シモンの人形もそうだが、「見方」が分からないとよさが分からないというものがあるのだけど、シモンの人形は『人形作家』を読んでいるうちにすごくその魅力に目覚めてしまったし、バルテュスに関してはこの本と松岡正剛の指摘を読んでいるうちにそういうことかというのがすごくよく分かってきた。特に全くそうだと思ったのは、以下の記述。

バルテュスに「病んだ精神身体」を想定しすぎたことも、おせっかいなことだった。
なるほど、バルテュスの劇的な瞬間を凍結したような絵からは、やすやすと「不健全」や「不安定」や「不吉」をいくらでも引っ張り出すことができそうであるが、しかし、それはバルテュスが怪訝な宗教画家の本質をもっているからで、その絵には、信仰へ旅立とうとしている者たちの初期の不穏な心情が描かれているからなのだ。

バルテュスは少女を「この上なく完璧な美の象徴」と言っているが、それはつまりどういうことかというと私たちは彼の少女を見るときその少女像を対象としてみるだけではつまらないということで、画家の傍らに立って画家と同じ方向に少女の像を見つめることでその向こうにある永遠に届かない完璧な美の象徴としての少女を画家と同じ視線で見つめなければつまらないということなのだと思った。そしてその方向に画家が見ていたものを見つめることで、画家の見ていた世界の深さをまた知ることが出来る。彼は敬虔なカトリック信者だったといい、また自分を芸術家ということを嫌って職人だと行っていたというけど、それは唯一のクリエイター、創造者であるのは神だけだというカトリック的な信念に基づいて言っているのだし、その信仰に旅立とうとするときに心の中に起こる不穏な心情、波紋、さざなみ、あるいは暴風のようなものが彼の絵に描かれた不安定性、不健全性、不吉な予感と称されるものなんだなと思う。向こうにある世界が見えるからこそ、こちらの世界の不安定性がより際立つ、というようなものとしてバルテュスの絵をみると、スルバランやリベーラの絵を見たときに感じる不穏さと同じようなものがここにはあるんだなと思う。ある意味彼はこの世界を絶対的に信頼している。それがピカソら当時の一線の「芸術家」との違いなんだろう。

私としては、バルテュスに学ぶことはたくさんあると思うし、忘れていたたくさんのものを思い出した気がする。何を書きたいかも思い出したしどう書けばいいかということに関してもヒントをもらった気がする。知っていることをとにかく書く。書くことが大事なのだ。書いているうちに忘れていたことや見失っていたことを思い出すから。本当は書くべきものはすべて、すでに持っているのだと思う。『ピアノの森』のセリフのバリエーションだ。

羣青 中 (IKKI COMIX)
中村 珍
小学館

『羣青』はほとんど名前、固有名詞が出てこない。この話は、DV男を妻が彼女にほれてるレズビアンに殺させるというすごく現代的な設定にしてあるけど、本質的に寓話なのではないかと思う。設定も事件も、ある意味すごく取ってつけたようだ。ざっくりとした枠線の中に力技で描き込まれる濃淡、という感じのストーリー。描きたいものだけを描いているから全体がすごくアンバランスな感じがする。『進撃の巨人』もそういうことを感じたな。それで商業ベースに乗る時代になったのだとしたら、やっぱり今は描き手にとっていい時代なんだと思う。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday