自分自身の意外な動作/カミングアウト/セックスの彼方にある宗教性

Posted at 11/02/07

結局私の場合、ブログの一番いい書き方は、定点観測ということなのかもしれない。つまり、自分が今何をしているか、どういうことを考えているかに関わらず、今の状態を掘り下げられるところまで書いておくという。掘り下げられないときは書けないけど。とりあえず何をしたかの備忘録だけは書ける。

2009年1月のブログを読み返していて、わりあい近い親戚の、それも若い子の不幸のことをぼかして書いてあって、最初何のことだか分からなかったのだけど、あとで思い出した。2008年の暮れにそういうことがあって、2009年の暮れには私の父が亡くなった。2010年にはその子の祖父で私の叔父に当たる人がなくなった。それは暑い日だったけど。毎年のように不幸が続くというのはやはり気が滅入るものがある。私の祖父が生きていた私の若いころから、毎年正月とお盆には親戚で集まるという会があったのだけど、2009年の正月からずっと、そういう会をもてないでいる。親戚で集まったのは、従兄弟の結婚を地元で披露した時以来だろうか。それもももう何年前になるか。いや、もちろん不幸や法事のたびに集まりはするのだけど、それは心置きなく歓談するという機会ではないから。

定点観測で書いていくと、心の中に余計なガスは溜まらないのだけど、必要な内部圧力が下がるのではないかという気もして、そのあたりのところが難しい。内部圧力のコントロールというのはすごく難しいことで暴走しても困るけど中から噴出してくるものがないと推進力が弱いということもある。そのあたりいつも何が一番いいのか迷うのだけど。

昨夜から、ビデオで自分の日常生活を撮ってみて、それを32インチの画面で見ているのだけど、なんだか面白いといえば面白い。自分の動きがすごく演劇的だなと改めて思うのだが、姿勢が悪くなっていても写していることを意識すると背筋が伸びたりして、これはある程度意味があるのかもしれないと思った。ずっと回しっぱなしにしてたら30分以上撮っていて、これは見るのが大変なので早回しやスキップで見ていたのだが、たとえば自分の動作を描写するときに自分で実際に何かやって見て、それを録画してそれを見ながら描写する、ということはあるかもしれないと思った。自分の動作を見ていてさえ、へえっと思うことが時々ある。

『人形作家』はやはり自分の中でひとつの画期になりそうな感じだ。これがひとつの基準点として、現代美術の方面とかエロティシズムの方向とかを考える参照点になる感じがする。そこからものを書けるというか。何というか、ここのところ「等身大の自分」みたいなものしか出発点がなくて、もの(フィクション)を書くのがすごく大変な側面があったのだけど、ベースキャンプをそういうところに作れると書くものの幅が広げられる感じがする。まだエネルギー充填が十分ではないとは思うが、少し力が入って来そう。

羣青 上 (IKKI COMIX)
中村 珍
小学館

中村珍『羣青』「上」を読了していま「中」の200/514ページ。ちょっとネタバレあるよ。なんていうかボコボコ人が死ぬなあ。上巻の最後に仕事中に聴いた歌というのがあって、予想通り中島みゆきが並んでいた。荒れはまあ、男女の泥沼を歌っていると基本的には思うが、女女の泥沼だって別におかしくはない。この眼鏡を描けた主人公、誰に似ているのかと思ったらちょっとアンジェラ・アキに似ている。185ページあたりで着ているTシャツだと特に。最初はこの子がリードしていると思っていたのに、実は金髪のレズビアンの彼女の方が本当は男っぽくて、けっこうリードする感じになっていくのが面白いなと思った。ドメスティックバイオレンスの旦那を殺させた眼鏡の女と殺した金髪のレズビアン。その二人の逃避行の中で関わってくる人々の、まあ人間模様。

金髪の元カノ、つまりその人もレズビアンなのだけど、その子が両親にカミングアウトするところがなんていうか、理解されてしまっていてなんかやりきれない感じはあるだろうなと思う。そういうことのカミングアウトって受け入れてくれるのと受け入れられず縁を切られるのとどちらが本人にとっていいんだろう。モーニングに連載されている「きのう何食べた?」でも、イケメン弁護士とオネエの美容師のゲイのカップルがいて、弁護士が両親に「彼氏を家に連れて来い!」と迫られる場面があるが、紹介って敷居高いだろうなあ。そういうのって想像するしかないけど。でももし自分が20歳くらい下の人と結婚するということになったら自分より少しだけ年長の親に会いに行くことになるわけで、石田純一を見習うようなことになってしまう。案外他人事じゃないかもしれない。バルテュスみたいにあれよあれよと進行させてしまえばいいかもしれないが。

バルテュスの優雅な生活 (とんぼの本)
節子・クロソフスカ・ド・ローラ,夏目 典子
新潮社

そう、そのバルテュスの伝記、『バルテュスの優雅な生活』(新潮社とんぼの本、2005)も並行して読んでいる。ベルメールは基本的にシュルレアリストに分類されるようだけど、バルテュスはどうなんだろう。こちらの松岡正剛の記述を読んでいて、つまりは性の遺伝的な記憶の彼方を見つめる祈りの画家とでも言うべき存在なんだろうかと思ったりする。性の彼方に宗教的なものを見つめるのはある種女性の特質みたいなところがある気がするが、『羣青』なんかもある意味そういうところがないではない。中島みゆきもそうだし、瀬戸内晴美みたいに実際宗教に入っていってしまった人もいる。まあもちろんそういう特質は男にもあるわけで、性的なものの描写にある種求道的なものが入ってきてしまうのはそういうことなんだろうと思う。

いま24/127ページ。バルテュスの絵は今まであまりまともに見たことがなかったけど、面白いな。私は有元利夫が好きなのだけど、バルテュスはある意味でその先を描いている感じもする。こういう絵も一枚くらいほしいな。しかしある種の呪術性を持っているから、影響されやすい人には見せられないなという気はするけど。都条例規制対象的な意味で。

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by Luke Peterson

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