『ノルウェイの森』読了(1/8に書いたもの)

Posted at 11/01/11

ちょっと時期を外してしまったのだけど、1月8日の朝に書いた『ノルウェイの森』の感想を改めてアップしておこうと思う。読み終えた直後でちょっと上っ調子になっているところもあるのだけど、それも含めて日記として残しておこうと思う。

***

昨日は仕事10時まで。千客万来で忙しかった。しかし引けるのは思ったより早く、10時前には終わった。帰ってきて夕食、母に愉気。お湯の温度が上がらないと言うが、温度計で測ってみると40度。ぬるめだが入れないということはなかった。お湯のタンクが外にあるので、冷え込むときには何かの加減でお湯がすごく冷たくなっている時がある。昨日は11時でマイナス6度くらいだったから冷え込んだせいだろう。入浴して自室に戻る。空は晴れて、シリウスやオリオン座がすごくきれいに見えた。村上春樹『ノルウェイの森』を最後まで読む。読了したのは1時半、すぐに寝た。

目が覚めたのは6時前。読了の興奮が残っていたのか、すぐに目が覚めた。ストーブをつけて寝ているのだけど、明け方に灯油が切れかかっている音がしたのでぱっと起きてぱっと着替え、ぱっと布団をたたんで灯油を給油してホットカーペットをつけて携帯で気温を調べた。マイナス10.0度。キター!今年最初のマイナス二けた台。水道は当然凍っている。机の前に座ってノートにモーニングページを書き始める。『ノルウェイの森』の感想ばかり出てくる。7時の気温がマイナス10.1度、8時の気温はマイナス9.2度、9時の気温はマイナス6.9度。0度くらいまで上がれば(凍結防止の電熱を巻いてあるから)水道は出るだろうと思う。天気はいいから11時くらいには何とかならないか。7時半に朝食に行き、デパートで売っていたという天然酵母のパンを食べる。なかなか美味い。自治会で松飾りの回収をやると言うので職場のと自宅のを二つ持って橋のたもとのごみステーションへ。小学生とそのお父さんらしき大人が待っていて、松飾りを受け取ってくれた。確か10日にどんど焼きをやる予定だったと思う。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社

村上春樹『ノルウェイの森』。何といえばいいのだろう。普通の意味で「も」とてもいい小説だった。80年代の日本小説のベストワンになるのではないか。もちろん私の読んでない小説でもっと評価すべきものがあるかもしれないのだけど。この小説は日本人の死生観と普通に一致するところがかなりあって、たぶん通俗的な意味でもすごく受け入れやすい(受け入れにくいところも相当あるはずなのだけど)小説なんだろうと思う。この小説が売れたのはすごくよく理解できるし、当然だと思う。しかし村上はあまりに売れるのを見て「しまった」と思っただろう。多分村上自身がそんなには思ってなかった読み方を相当されていると思うのだ。しかしそれがおそらく村上という作家の才能の大きな一部であり、また村上という作家の「業」でもあるのだと言う気がする。

この小説、「死と再生」をテーマにした、いや「死は生の一部である」ということを長い時間をかけて受け入れていく物語だ、と思った。そういう意味で普通にとてもよい小説で、村上の小説として、私にとっては初めて手放しで無条件で称賛できる名作だと思った。見方によっては近代文学最高の作品と行ってもいいかもしれない。何を達成したかという点、それが世界に通用するという点において。上にも書いたがある意味これが受けるのは当たり前で、次の作品はとても書きにくくなっただろう。独自のスタイルで独自の内容を書くのが身上の作家が、日本の伝統的観念や一般への幅広い共感を読んでしまったということでそれに縛られる危険性が相当出てくるし、またそれまで村上に批判的だった勢力も「自分たちの側に歩み寄った」と判断した人もいるんじゃないかと思う。そういうことに対するおそれや忌避もあって村上はしばらく外国へ行ってしまったのではないかと思う。

年譜を見るとこの小説の5年後に『ねじまき鳥クロニクル 第一部』を書いていて、それまでの間の長編は『ダンス・ダンス・ダンス』と『国境の南、太陽の西」の二本だ。この二本は読んでないが『国境の南、太陽の西』は『ねじまき鳥クロニクル』を構想している中でスピンオフして出来た作品だと読んだことがあるし、『ダンス・ダンス・ダンス』は鼠三部作(これらも読んでないが『風の歌を聞け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』)の続編だと言うから全くの新機軸の長編としては『ノルウェイの森』の次が『ねじまき鳥クロニクル』ということになる。このあいだの飛躍はすごいものがある。というか少なくとも前人未到の領域に踏み込んで行ったんだなと思う。そしてピカソが「8歳のときにラファエロと同じように描けた」と述懐しているように『ノルウェイの森』でのリアリズム的達成が踏まえられた上でそうした冒険に乗り出して行ったんだろうなあという気がする。ま、実際にこれらの作品群を読んでみたら違う感想を持つかもしれないのだけど。

何かこの作品についてはいろいろなことを語りたい気もするし、しばらく何も言いたくない気もする。しかし、映画との関連については書いておいた方がいいと思う。この映画を、日本人の監督にやらせたくなかったのはよくわかる。「ものすごく日本的に撮る」ことが可能な作品だからだ。トラン・アン・ユンの映画の作りに関しては様々な異論があるだろうけど、映画と小説は全く別の作品であるべきだと言うた立場で言えば、見事に独立した作品になっていると思う。もちろんそれには異論があると思うけれども。多くの人がこの映画の出来をけなしながらでももう一度見るかもしれないというようなアンビバレントな反応を示しているのがとても面白いなあと思うのだけど、それだけユン監督が「衝撃的」な解釈をしたということなんだろうなと思う。私は映画が先だから小説で頭の中に世界を作っていた人の受けた衝撃は想像するしかないのだけど、小説を読んでみると「へええ、もともとはこうだったのか」と思う個所は随所にある。でもある意味で、解釈というものは衝撃的でなければ意味がないし、それはもう一度確かめたいという種類のものだったのではないかとも思うし、しかしやはり見事に場面のイメージ、作品のイメージを映像化した部分もやはりあるし、とは思うのではないだろうか。やはり映画でなければこういうことはできないというところはたくさんあった。

とにかく最大の問題は物理的な問題だ。小説の長尺に対して映画の許される時間は短い。『風とともに去りぬ』ならともかく、現代映画では2時間だろう。そして『ノルウェイの森』という小説は精神疾患を扱っていると言うこともあり、また恋愛を扱っているということもあり、そしてその二つの共通点はつまり「時間が薬(あるいは毒)」ということであって、ゆっくりと長く長く時間の経過を引き延ばして書くことによって成立しているリアリティを2時間以内に収めなければならないということで相当大きな改変がなされているということにある。ユン監督は作品が読めてないという指摘もあったが私はそうでもないと思うしどう読んだかとどう撮るかは当然また別の話だ。

しかし小説を読んでみると映画を見て失望したり怒りを感じたりした人がたくさんいたということも理解できる。実際、1987年という年にこれだけ長い小説、これだけある意味「遠くのこと」を扱った小説を最後まで読み切り、この死と生の物語につきあった人が何百万人もいたかと思うと驚いてしまう。そして私もようやくその何百万番目かの読者になったかと思うとなんだかまるで「存在の祭りの中へ」入って行ったような感じがする。

読了した途端、頭の中でバーンとビートルズの「ノルウェーの森」が鳴り響いたのは、映画を先に見た人の特権だろう。(笑)あのラストは映画では怖い方向に行ってたけど、小説を読み終えたときは「死の国の旅」から戻ってきたワタナベが生の国に戻って新しい再生の時を迎えた、というふうなポジティブな感じがした。これはどちらが正しいということでもないだろう。村上はこれを固定的な終わり方にしたくなかったのだと思う。どう終わるかというのは解釈する側にとっては大きいことだが、これはショパンの練習曲作品10の12、いわゆる「革命のエチュード」の終わり方がまるで曲が中断したかのように終わらせるピアニストもいれば十分な余韻を持って終わらせているピアニストもいるのと同様、いろいろな「演奏」の仕方がある、ということなのではないかと思う。

細かいところでもいろいろ言及したいところはあるのだが、読了してしまうとやはり全体像の方に目が行ってしまう。私の文庫本は書き込みと付箋と角折りだらけになってしまった。

少し思いついたことを書くと、年上の二人の女性に対するワタナベの接し方が面白い。ハツミさんとレイコさんに対してだけ、ワタナベは顔を赤くする場面がある。ハツミは少年の日の遠い憧れであり、レイコは直子と、そして世界と接するときの先生でもある。この二人の年上の女性に接する接し方が面白いと思うし、実際村上自身も年上の女性から色々なことを教えられたのではないかという気がする。年上の男性からは永沢のような奇矯な教えが多かったのではないかと、これもまた邪推。

いろいろなタイプの女性が出てくるし、いろいろなタイプの人間が出てくるが、重要な役割の女性を魅力的に描くのが村上は本当にうまいし、嫌な奴を徹底的にいやなやつに書くのもうまい。突撃隊は…滑稽なキャラクターを書くことにどうも村上は罪悪感を持っているような気がするな。直子にしても緑にしても、実際にいれば結構付き合うのが大変な女性で、おそらく直子的なもの、緑的なものを持っている女性はとてもたくさんいると思う。しかしそれを一つの典型に高め、そして小説の根幹をなすにふさわしい魅力的な女性に村上は腕によりをかけて磨き上げている。まあそれはいわば小説のウソなのだけど、虚構というのは、フィクションというのはまず読まれなければならないから、必要な工程でもある。その部分が評価されること自体は村上も嬉しいだろうけど、そこの部分「だけ」を取り上げられてそれが村上春樹の「世界」だ、と解釈されるのは心外だろう、ということはいつも思う。しかし実際そう解釈する読者によって売り上げが支えられているという面もかなりあると言うのが現実ではあると言う気はするけれども。

いや、でもとにかく、映画とは違って小説を読み終わったときには本当に明るい、普通の意味でポジティブな気持ちになることができた。その意味でこの作品が文学史上の金字塔であるという実感はひしひしとするのだけど、それが金字塔であるということはすでに過去のものであるということで、村上自身もそれに続く作家たちもそれを超えていかなければならないのだと思う。スコット・フィッツジェラルドやレイモンド・チャンドラーを愛読した村上がある意味その地平を超えた作品を生み出し続けているように、村上を愛読した作家たちがその作品の地平を超える時代がまたやって来るのだろうと思う。

『ノルウェイの森』とは、何かそういう前向きすぎる感想が似合う作品だという気がするのだった。

(この記事は後で1/8に更新日時を変更するかもしれません)

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