今、ものづくりの何が問題か/『ナウシカ』の胸はなぜ大きいのか

Posted at 10/10/20

昨日。午前中松本に出かけて、帰ってきてブログを書き、昼食。午後、一休みしてから図書館に行って武田百合子『富士日記』(上)を借りる。ツイッター上で私にいただいたコメントの中で言及されているのを読んで。ちらほらと読んでみると、浮き上がってくるような百合子のキャラクター。これはきっと面白いだろうなと思うのだが、なかなかうまく入ってこない。まだそういうものから言葉を感じられない何かが今あるんだろうなと思う。

富士日記〈上〉 (中公文庫)
武田 百合子
中央公論社

書きたいこと、書こうと思っているのに書けないこと、書くべきなのにどこにあるのか分からなくなっているものなどいろいろあって、ちょっと自分の中が混乱している。落ち着かなければ。

創るセンス 工作の思考 (集英社新書 531C)
森 博嗣
集英社

森博嗣『創るセンス 工作の思考』(集英社新書、2010)、面白い。現在96/204ページ。ものを作るということ、工学に必要なセンスというものについて書いているのだけど、「どんなものを作る場合でも、思った通りには絶対に行かない」ということを理解し、それを乗り越えるためにいろいろ考え、発想し、試行錯誤することが出来るということが工学に必要なセンスで、子どもの遊びが工作からテレビゲームに変化した今、そのことが分かりにくくなっている、だから何が必要なのかということを言っておかなければならない、という趣旨。

それに付随して、あまりに大量生産が進んだためにオーダーメイドの楽しみのようなものが失われ、より自分に近いものを選択することはできても、本当に自分にピッタリなものを作る、あるいは作ってもらうことが難しい時代になった、ということもいっていて、それは本当にそうだなと思う。

「予期せぬ問題は必ず起こるものだ」という真理に対し、現代の態勢は出来る限りのバリエーションを用意してそれに対応し、カスタマイズさせるという形で対応しようとしているが、結局それでは限界があるわけで、その限界を超えるためにはどうしたらいいか、ということを言っている、といってもいい。つまり、世の中にものはあふれているが、そのほとんどすべてが「帯に短し襷に長し」のものばかりで、微妙に身の丈に合わないものだ。しかしみなそれが平気になってきている、というのは問題だろう。職人のこだわりというものがあれば、それが一番許さない部分だろう。そういうセンスが、今の日本から失われつつあることはやはり問題なんだなと思った。

こういうのって生きて行く中ではものをつくること以外にもつねに起こることであって、それを乗り越えて行く能力というのはやはりモノづくりに要求されるセンスに似ているところがある。そんなことを思う。

***

創作系のものを書こうというベクトルが今は強いので、どうも批評的な言語が使いにくくなっていて、上手くそういうことが表現できなくてもどかしい。創作系の言語は世界をつくる言語であって、主体となって動く言語であるのに対し、批評系の言語は世界から一歩引いてそれを描写し、語り、分析する言語なので、言葉の在り方が違うし言葉を書くときの姿勢が全然違う。

若いころのことを今ふと思い出したが、批評的なことばと内省的な言葉が入り混じり、他の人のことを話しているうちに自分のことを考え始めてしまって言いたいことが分からなくなってしまうということがよくあったが、今の状態はその状態に近いなと思う。

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ネットでいろいろ読んでいて、「ナウシカの胸が大きいのはなぜか」、というような話が面白かった。私はナウシカにしろ『ラピュタ』のシータにしろ、胸が大きいのは性別と年齢をあらわす記号くらいに思っていたのだけど(そのとらえ方もよく考えてみるとどこか変だが)、そういうことではなく、彼女たちが持つ母性のようなもの、そういう働きをあらわしているらしいということはいわれてみてはっとした。ナウシカは明らかに救世主として描かれているわけだけど、その優しさと強さ、「優しく猛々しい風」は明らかに「母」としての性質を持っている。しかし、マンガ版の7巻で傷つき休息をとるときに入浴する場面が出てくるのだが、露わにされる胸は小さい。大きくは描けなかった、と宮崎がインタビューで答えている。ナウシカの聖性と、その大きな胸の両立はやはり戦う場面、先頭に立つ場面でこそ生きて来るので、入浴シーンは彼女が癒されなければならない場面、母でなく娘としてあられる場面であることもあって、結局大きくは描けなかったのだろう。言わば宮崎自身の欲望が肝心な(?)ところで抑制されてしまうというところがなんだかいい。

聖少女と母との往復。観世音菩薩とかマリア像とかはやはり肉感的には描けない。今のエロはそれをやたらに踏み越えてしまっているけど。しちゃいけないことをしたからと言って自由になるわけではない。禁忌を乗り越えたら何か新しさがあるという安易な発想では、人は自由にはならない。

ああ、だいぶ落ち着いてきた。

宮崎は処女作で手塚治虫でいえば『火の鳥』を書いたんだなと思う。庵野秀明も多分『エヴァンゲリオン』で同じことをしたんだろう。

ワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」
宮崎 駿
徳間書店

『風の谷のナウシカ(コミック版)』の最後に墓を滅ぼし、未来に生まれるはずの「新」人類、ないし「神」人類の卵を滅ぼす場面、ここには強く反発を覚えたということを昨日書いたけれども、よく考えてみるとあれは『天空の城ラピュタ』でシータとパズーが「バルス」という滅びの呪文を唱えてラピュタを崩壊させ、自分たちの死と引き換えにムスカの野望をくじこうとすることと同じなんだなということに気がついた。書き方が全然違うので彼が意図していたことになかなか気がつかなかったのだけど、古代の高度な文明の遺産で自分たちが生きて行こうという「よこしまな考え」を拒み、自分たちが作ってきた不完全だけどいのちのあふれる世界を生きよう、そのために滅びた古き文明をもう一度滅ぼそう、というテーマは全く同じで、そういう意味で『ラピュタ』は『風の谷のナウシカ(コミック版)』のリメイクであるという解釈もできると思った。

シータは少女性が強調されているけれども、胸が大きいこととか海賊たちの食事をつくる場面で母親的に振る舞っていく場面など、確かに海賊の首領たる「ママ」と同様の要素をみせている。また、ムスカと対決する場面で突然王女のように凛と振舞うところがあるが、あれは王女というよりもナウシカなのだと考えればシータの性格に対しても見方が広がる。

宮崎はまず架空世界で『ナウシカ』を描き、『ラピュタ』で現実世界――19世紀産業革命期のイギリスのような世界――に降り立ち、『もののけ姫』では日本中世にまで近づいてきた。何というか、描きたいものを描くためには、浮世離れしたところで自己を確立し、それから現実世界に降り立つ、というプロセスが必要なんだなと思った。

これは自分のことになるが、ナウシカの母性ということを考えていて、自分には信頼できるものとしての母というイメージ、あるいは観念が欠けているな、ということも思った。同じように、信頼できるものとしての父というイメージ、あるいは観念も。そこに多分、自分の欠けているところがあって、それを埋めるために何か創作によって作りだしたい、という根源的なものがあるのかもしれないと思った。現実の両親を見ていると、といっても父はもう亡くなったが、何というか少年少女のように見えて仕方がない部分がある。今でもどうも、私の母を見る見方のなかには娘を見ているような感覚が多分ある。それはどうしたものかとも思うが。

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まあ、とりあえずそういうことよりも、やはり私はもう少し、自由について考えた方がよさそうだ。一つの作品で語りつくせるものではない。武田百合子も読もう。

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