子どものときに読んだ話にめぐり合う/『正義の話』と小林よしのり、そして村上春樹/大切なもの

Posted at 10/10/05

昨日。何とかブログを書いて、と言っても書き終わったのは7時前になっていたが、とにかく出かけた。もちろんもう暗くなっていたけれども、この日月ではじめての自分のための外出。やはり何か用事があって出かけるのとは意味が違う。自分とゆっくり会話が出来るのも嬉しい。

一応、読みかけの『これから「正義」の話をしよう』は持って出かける。まあここしばらく、この本が自分の中の取り組むテーマになっているので、とりあえずはまずそれに切りをつけたいという気持ちがあるが、昨日も書いたようにこの本はなかなか骨があって、なかなかそう簡単には読みきらせてもらえない。

昨日は天気が崩れるという話で、午前中浦和に出かけたときもぱらぱら来てはいたのだが、本格的に降ることはなかった。どこかで傘を買おうと思っていたのだけど、結局買わなかった。いいのがなかったということもあるが、実際に雨が降っていたら選り好みもできなかったわけで。

そう、一昨日は午前中江戸川に出かけ、夜は品川に出かけた。短い間に大きい用事が、それも自分の取り組んでいることというより、自分を支えていることのレベルのための用事が立て込んだので、神経も使うし体力も使った。会う相手は気が置けない相手だからそれはいいのだけど、仕事の内容が厳密さを要することだったからだな。どちらも、普段の自分の守備範囲に戻ってくるとほっとする。パワーがあるときに知らない場所に出かけるのとはやはり違う。京都にでも出かけたいなと思う。

東西線で大手町に出て、丸善へ。何をしようか、何を食べようか考えたのだけど、結局丸善4階のカフェでハヤシライス。それに梶井基次郎にちなんだ「檸檬」というデザート。窓際の、東京駅の列車の発着が見える席で、夜の東京を眺めながら。本を読みながら。

勝ち残る!「腹力」トレーニング (講談社プラスアルファ新書)
小西 浩文
講談社

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あとはぼーっと丸善の中を見て回り、新書、文庫を3冊買う。小西浩史『勝ち残る!「腹力」トレーニング』(講談社α文庫、2010)、湯浅健二・後藤健生『日本代表はなぜ世界で勝てたのか?』(アスキー新書、2010)、エドガー・アラン・ポー『クロネコ・アッシャー家の崩壊―ポー短篇集Ⅰ ゴシック編―』(新潮文庫、2009)。「腹力」は腹圧、瞑想、腹式呼吸という考え方で身体を強くする、という本らしい。著者は私と同年。どんなことが書いてあるのか読んでみたい、という感じ。

日本代表はなぜ世界で勝てたのか? (アスキー新書 161)
湯浅 健二,後藤 健生
アスキー・メディアワークス

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『日本代表』は私がよく読んでいる湯浅氏の対談本。サッカーへの、特に代表への関心は上がったり下がったりなのだが、湯浅氏のコラムを読んでいるとその時々の見所のようなものがわかり、参考にさせてもらっている。これからザッケローニの采配がはじまるわけだが、その前に今回のワールドカップをもう一度振り返っておくのもいいかなという感じだ。

黒猫・アッシャー家の崩壊―ポー短編集〈1〉ゴシック編 (新潮文庫)
エドガー・アラン ポー
新潮社

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ポー短篇集は、今まで何度もトライしようとして結局読んでいないもの。収録されているのは「黒猫」「赤き死の仮面」「ライジーア」「落とし穴と振り子」「ウィリアム・ウィルソン」「アッシャー家の崩壊」の6編。どういうスタンスで読めばいいか迷っていたところがあったのだけど、「ゴシック」という定義が与えられていたのでそういう方向で読んでみてもいいかなと思ったのだった。しかし立ち読みして、「赤き死の仮面」という短篇は読んだことがあるのに気がついた。それも、小学校に上がる前の、母が枕元で読んでくれたような本としてだ。子供向けに翻案はしてあったが、どこかの出版社のお話集で、「世界の恐い話」みたいなものの中の一篇に入っていた。この話については多分以前このブログでも書いた覚えがある。そういうものに巡り合うというのも縁なのだろう。子ども心にすごく怖い話で、強烈な印象が残っている。ゴシックというのは、そういう恐怖とか死とか滅亡とかそういうものを主題にした作品と考えていいのだろうか。あんまりそういうものが好きなわけではないが(怖いから)、自分が書く小説というのはそういうものがテーマになることは多く、何か忘れていた書きたいことを思い出す部分があるかもしれないとも思う。

レジを済ませたのはもう9時近くになっていて、また閉店ぎりぎりになったので、新丸ビル地下ももう閉まる時間だからそのまま地下鉄に戻って、地元の駅のコンビニで小腹を慰める的なものを買って帰った。どうも疲れが出ていて早く寝た。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル,Michael J. Sandel
早川書房

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『これから「正義」の話をしよう』。現在298/348ページ。全体的な構図としては、正義に関する幸福・自由の話が終わり、美徳の話に入っているという感じかと思う。自由の話についてはかなり詳細に議論していて、こういう考えの人なのかなと思った部分もあるのだが、アリストテレスを経て第9章「たがいに負うものは何か?忠誠のジレンマ」の章でコミュニティとの関わりの話になってきて、彼がコミュニタリアン(共同体主義者)といわれる由縁が説明され、いろいろなるほどと思う部分が出てきた。あるコミュニティに属する人がその歴史に責任を持つべきか、というような議論の中で日本の戦争責任について認識不足の議論をしているところは読んでいて白けたが、まあそこは無知がしからしむるところで仕方ないとは思う。しかし、コミュニティに所属し、その物語の中に自分の役を見つけるというアラスデア・マッキンタイアの議論を引用するところはそうかそういう解決を求めているのかと思った。個別の戦争犯罪の問題はともかく、そういう認識や問題の意識の仕方は、小林よしのりの議論と大変よく似ている。どこかで読んだ懐かしい議論が出てきたなと思う。コミュニタリアンというのはそういう考えの人たちをくくるネーミングなのかと思うが、まあまだ読みきっていないのでそう簡単には言えないかも知れない。

「正しさ」と「善」と、どちらを優先するかという問題。善というのはこの場合、道徳的な価値観であり、正しさとはこの場合人が自由意志で善を選択できるという主張だ。善というのはアプリオリにすべての人に強制されるものではなく、何が正しいかを理性で判断できるそのことが重要だというのがカントやロールズの主張になる。しかしアリストテレスを経て著者はそれだけでは不十分であると主張する。個人は歴史から浮遊した存在ではなく、コミュニティの中で生き、コミュニティの物語を引き受けて生きる存在だ、という主張だと考えていいと思う。このあたり、村上春樹のデタッチメントからアタッチメントへの転換とも関わると思う。そういう意味で、全然違う存在ととらえてきた村上春樹と小林よしのりは、実はかなり共通性を持つ存在なのではないかという感触もなくはない。

まあそんなパースペクティブを持ちつつ、もう少しで読了。

それにしてもここ数日、本当に強く感じたのは、自分のための時間を大切にすることの重要性だった。自分のための時間というのは、私にとっては書くための時間、そしてそのために頭を整理し、心を落ち着け、身体を整え、机に向かう時間のことで、それをいかに大事にするかということの意味は、いくら強調しても強調し過ぎることはない、と思った。

そのための準備として本を読む時間、映像作品を見たりさまざまなものを吸収する時間がそれに次ぎ、そのための態勢を整える時間がそれに次ぐ。他のすべてはそれを支えるための時間だ、と言ってもいいかなと思うくらいで、とにかく書く時間を大切にしなければと強く思ったのだった。

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