私は何を探していたのか/『スターウォーズ 帝国の逆襲』

Posted at 10/09/24

『若きウェルテルの悩み』を読んでいると、ウェルテルが前の日に書いた日記に書いてあることと正反対のことを書いていたりすることがあって、そうやってあちらからこちらに揺れ動くシュトルム・ウント・ドランクの様子をよく表現しているのだが、私のブログも何だかそんなところがあるなとときどき思う。前の日に思ったことを、次の日にはやはり違ったのではないか、やはりこうなのではないか、と、そんなにストレートではないかもしれないが書いていることがよくあるなあと思う。

昨日は「探求」が自分の実存に関わることだ、ということを書いたのだけど、で、それは間違ってはいないのだが、昨日野口昭子『時計の歌』を読みながら考えているうちに、いったい私は何を盛んに知ろうとし、何を探していたんだろうという気がしてきた。


自分がなぜそんなに探す、ということに一生懸命になっていたのか、昨日から今日までずっとそのことを考えていたのだけど、どうもそれらしい答えが見つからなかった。昨日『スターウォーズ』の「帝国の逆襲」を見て、今朝もその続きを最後まで見てから蔦屋に行って返却して新しいのを借りようとしたら、財布を忘れていた。仕方ないので返却だけして、借りたいものがどのくらいあるか品定めをして、次には「ジェダイの帰還」とマイケル・ジャクソンの『This is It』を借りようということだけ決めて帰って来る途中、結局、自分は何かしっかりした基盤のようなものがほしくて、それが「自分」というものだ、というふうに考えていたんだろうなということに思い当った。

自分を基盤にする、というのはまさに西洋的自我の考え方なのだが、私はどちらかというとそれに否定的なスタンスを取ってきたのだけど、小説を書く上ではある程度はその意識は必要なのかもしれないとも思う。自分がはっきりしないとストーリーを書いていても核心にしっかり突っ込めないという感じがする。

しかし、これはその前に考えたことなのだけど、自分というものは追い求めて行くとなくなってしまうものかもしれない、というふうにも思える。自我はもともと「ない」、というのが言わば東洋的な考え方だ。自我は無であり、自分という存在も仮の姿だからだ。

自分というものがもともとないなら、たとえば幸福というものはあるのか。理想というものはあるのか。ということも考えてみる。幸福というものは不安定なものだし自分で勝ち取っていかなければならないものだが、幼いころは人によって作られた幸福という基盤がしっかりしている方が多分ベターだろう。大人になったらそれは自分で作り、補修し、失ったらまた獲得する、という努力が伴うし、またその努力する過程の中にこそ幸福はあるという考え方もある。理想を基盤にする、というかゆるぎない理想、つまりゆるぎない信念を持って前に進んでいく、という人も確かにある。まあそれが自分が宇宙の中心にある、ということなのかもしれない。ただその理想というのも永遠不変のものではないし、時が経てば実現しないうちに古びて行ってしまったりする。時代の変化についていけないまま朽ちて行ってしまう理想がいかに多いことか。理想は時の勢いを得てこそ初めてその真価を発揮しうる。またブームで終わらせずスタンダードに成長させていくこともまた骨の折れることだがそこまでの射程が理想には必要なのだろう。

話を戻す。本当の問題は、知るということより生きることなのだから、生きるために知りたいと思っていたのが「知る」ということ、「探す」ということが必ずしも生きるということにはつながらないという部分もある、ということを考えていて混乱したのだ。武帝が達磨大師に「私の前にいるあなたは誰だ?」と尋ねたら達磨は「知らん」と答えた、という話が『碧巌録』に書いてあるが、自分がどういう人間なのか、本当は知ることはできないし知る必要もない、ということをこのエピソードは言っているのかもしれない。己を知れ、とよく言うが、知った気になることほど危ないことはない、ということもまた真実だろう。

ということはつまり、自分のことについてもここまで分かってここから分からない、と謙虚に把握していればいいことで、自分のできないことを無視して自分に絶対的な自信とか絶対的な信頼とかをおいてはならない、ということを言っているのだろう。絶対的、ということは本来あり得ないわけだが、そこに慢心とか過信が生まれ、そこから焦りとか不安とか憤りとかが出てくるということになり、そうした感情に支配されるようになると物事がうまくいかなくなる。『スターウォーズ』的に言えばそういう状態をダークサイドに落ちかけている、ということになるんだろう。

自分はあくまで、ここまではできるがここからはできない存在である、ということを知らなければいけないし、出来るかどうかわからないことは試してやって見て、これはできるがこれはできない、ということもはっきりさせていかなければならない。基盤を作るというのはそういうことなのだな。そこで感情にとらわれずに物事を実行して行くということが重要になる。考えてみれば、何が出来て何が出来ないかを知るということは生物として当たり前の必要条件なんだな。

つまり話を整理すると、やはり何事かをなす上での基盤は自分自身なのだ。しかしそれを絶対的なものとみなすことが問題なのだ。そういう絶対的な大地のような基盤になる自分自身というものはない。しかし人が何かをなすためには、足場として自分のできることを使うしかない。<自分自身>という霧のような幻想的な存在ではなく、これはできるがこれはできない存在としての自分を基盤にして行かなければならないということなんだろう。

まあ何か当たり前っぽい結論になったな。

探す、ということに否定的な感じのことをいろいろ書いたけれども、ただ、タブッキのような「探す」という物語は一度書いてみたい。

***

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『スターウォーズ』エピソード5「帝国の逆襲」を見終わった。(以下一応ネタバレ。今更ネタバレでもないんだろうけど、見てない人だっていないわけではないだろうし。)

これは要するに、歌舞伎だなと思う。戦う場面はある種の様式性があるし、話の構造や展開の仕方も壮大なハリボテみたいなところがある。面白くないと言うのでは全然なく、むしろ思ったよりずっと面白いと言っていいのだけど、でもやはりちゃちいところやご都合主義的な部分は多いし、まあそういうものを気にしないで見るべきだ、という点でも歌舞伎に似ている、という感じがする。

歌舞伎という観点から見て行くと、何というか全体に重みのあるキャラクターというのがもっとあってもいいのになと思う。圧倒的な存在感を出しているのはダースベーダーただ一人だ。オビ=ワンとかヨーダとかももっと重量感があった方がバランスが取れると思うのだけど、ルークの「無鉄砲さ」にあんなに手を焼いてしまうとちょっと存在感が希薄になる。ジェダイ連から見ればその無鉄砲さは否定的にとらえられているけど、物語全体から見るとむしろそれは称賛されていると言っていいわけで、それはハン=ソロの無鉄砲さが最終的にレイアに受け入れられていくという展開とも並行している。その無鉄砲さ、恐れを知らない冒険心みたいなものを強く肯定するところがアメリカ的だなと思う。「はてな」の創立メンバーにとって『スターウォーズ』は聖典だということを梅田望夫が書いていたが、その無鉄砲さを愛し、しかもまたダークサイドに落ちてはならない、という基準で自分を律して行く、という姿勢ははてなだけでなくIT関連産業やシリコンバレーの人々に共通する姿勢のようなものを感じる。ちょっと単純すぎるなあとは思うが、それくらいシンプルな心構えの方が物事は少なくとも最初は上手くいくということかもしれない。

第一作ではハン=ソロが実は「いいもの」だった、という「モドリ」があったが、第二作ではランドが実は「いいもの」だったという「モドリ」がある。そしてルークが実はダースベイダーの息子だったというまあこれは普通衝撃だろう展開があり(しかし「弥助」実は「平重盛」みたいな荒唐無稽な展開(『義経千本桜』の大物浦の段)といえなくもないが)凍結されて連れ去られたハン=ソロはどうなるのか、とか伏線全部が中途半端になっているというテレビじゃないんだからというようなスバラシイ展開になっていて、第3作を見ざるを得ないという感じになっている。こういう展開も当時としては斬新だっただろうな。

とりあえず感想はここまで。

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