つらい「希望」/「昔書きたかったこと」は、今はもう書けない/「雑に暮らす」ことのマイナス

Posted at 10/08/22

冷房の効いた和菓子屋の喫茶室で、抹茶パフェ一つを食べきるのは、私には無理らしい。抹茶パフェ自体はとても美味しくて、一つ一つの工夫を堪能しながら食べた。添えられたやわらかい煎餅のスティックも胡麻の風味がとてもよかったし、バニラの中のしゃりっとした部分も楽しめたし、寒天の柔らかさ――家で作るとどうしても固くなる寒天が、和菓子屋で食べるとどうしてあんなにやわらかいんだろう――も最初食べたときは羊羹か水羊羹なのかと思った。しかし途中で寒くなり始め、添えられたあたたかいお茶を飲みながらようやく最後まで食べた。店を出てから成城石井で買い物をしようとしたのだけど、あまりに寒くて肘をこすりながら店内を見ているうちに買う気が失せてしまった。

新丸ビル地下の店舗はいつも物色しているので、気分を変えて丸ビルまで歩く。新丸ビルが建て直される前はよく丸ビル地下で買い物をしていたのだけど、最近はあまり買い物に来ていない。でも明治屋も千疋屋もあるし、割合欲しいものもあるということに最近気がついた。成城石井に戻って買ってもいいのだけど、今日は明治屋で買うことにして、レバーペーストとザワークラフトを探す。レバーペーストはすぐ見つかったが、ザワークラフトがなかなか見つからなかったのだけど、ワインやチーズに近いところで比較的小さい瓶のものを見つけて買った。それから弁当のコーナーを物色して、韓国料理の弁当を買って帰ることにした。

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昨日帰京。列車の中では主に朝日新聞土曜版の数独を解いていた。いつもは数独は一つなのだが、今週は数独特集と銘打って6つも載っていた。いちばん簡単、というのを解くのに1時間以上かかって疲れてしまい、二つ目を解いていたら途中でミスに気がついて、しまったと思っているうちに特急は新宿についてしまった。ので、あとの四つは全然手がついていない。今度の帰郷のときに車内で解いてみようかと思う。

体の贈り物
レベッカ・ブラウン
マガジンハウス

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金曜日に図書館で借りたレベッカ・ブラウン『体の贈り物』(マガジンハウス、2001)が面白く、一気に読んでしまった。全部で11の短篇からなっているが、登場人物はその短篇の中でいく人か重なっている。最初はケアのボランティアの団体でマネージャーを務めている女性が、最後から二編目で、「病気」にかかっていることが明らかになる。そのときの主人公(作者と行ってもいいだろう)の動揺。そう、エイズというのは当時、そういう病気だったのだ。彼女は退職することになり、最後のミーティングで送別会が開かれる。そこで主人公はその女性=マーガレットにこういわれる。「もう一度希望を持ってちょうだい」主人公は親しくなった患者たちが次々と死んでいく現場に、耐えられなくなっていた。マーガレットは少し前から、彼女のそんな様子に気づいていたのだ。

なんて辛い「希望」だろう。しかし、それが生きることなんだ、とこの小説はどこかで言っている。すべての人は死ぬ。そして、すべての人は病気になる可能性がある。生きている人間すべてがその可能性があるし、その人に対して心の準備が出来ている相手がそうなる前に、全く予想外の人間が病気になったり死んだりすることもある。そして、ショックなのは予想外の人間が死ぬときだけではない。その「心の準備」そのものが、準備している人間の心を傷つけることだってある。よりよく生きようとすることが、生きることそのものにダメージを与えることだってある。でも、人は希望を持たなければならない。

この世界には、絶望の甘さに溺れる人間は誰も出てこない。というか、日本人と違って、アメリカ人はそういう人間を好まない、のだと思う。絶望の甘さに溺れるというのはある種の変化球で、人生をごまかす戦術であるわけだが、まあそんなケアの現場でそんなことになる人間は誰もいない。絶望自体を逆手にとって「英雄的」な行動を取る患者まで現れたりする。彼はホスピスから「生きて出て行く」ことによって患者たちの生きた伝説になる。そしてそのあとどうなったのかは誰も知らない。そしてそのこともまた、主人公を深く傷つけている。

希望を持つこと。亡くなった人を悼むこと。その人間として当たり前のことが当たり前に行なわれるべき、という明確な主張がここにはある。インテリめいた衒いはその事実の前では、無力だ。この作品を書ききることが出来たレベッカは素晴らしいと思う。

文庫本のあとがきによると、この作品は2001年の2月に出版され、非常に大きな反響があって、医学雑誌からはじまり、あらゆる女性誌の書評コーナーで取り上げられたのだという。生と死を見つめる、というテーマを常に意識している人間は、多分アメリカより日本の方が多いだろう。アメリカではその意識を宗教に預けている方が一般的だろうし、この発刊の7ヵ月後に起きた同時多発テロ以降、さらにその傾向は強まっただろうからだ。そういう意味で、レベッカが読まれるのはむしろ日本においてだ、という指摘は正しいのだと思う。生と死の問題を宗教に預けられない多くの日本人は、多分この本の投げかけている何かを、誠実に受け取ったのではないかと思う。

お馬鹿さんなふたり
レベッカ・ブラウン
光琳社出版

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今日は4時前に出かけて、丸の内丸善でレベッカ・ブラウンを探した。ネットで江東区の図書館の蔵書を調べたとき、「Folie a Deux」の野中柊訳(光琳社出版、1999)、邦題『お馬鹿さんなふたり』が江東図書館の書庫にあるのがわかって借りに行った。amazonで調べると、もうこの版は絶版になっていたからだ。真昼の東京を自転車で走るのは、緑道公園の中でもなかなかきつい。図書館に入ると、中は子どもたちで大混雑している。そうか、まだ夏休みは終わっていないのか。長野県ではお盆が終わると二学期が始まるので、東京ではまだ夏休みだということを忘れていた。書庫の本を頼むと、なかなか司書が降りてこない。持ってきた本をみて納得した。銀色の表紙には、邦題が―というか日本語が(笑)一切書いてないのだ。デザインはいいけど、図書館員には不親切な装丁だ。ちょっと気の毒なことをしたと思った。

家庭の医学 (朝日文庫)
レベッカ ブラウン
朝日新聞社

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他の本は一応入手可能だということを調べてから丸善に行って、検索機で場所を確認する。残部僅少になっているのもあったが一応全部手に入るし、書棚に行ったら全部見つけられた。文庫で帰るものは一応全部文庫で買って、単行本のものはワンクッション置いてから買うことにした。で、買ったのは『体の贈り物』(新潮文庫、2004)、『私たちがやったこと』(新潮文庫、2008)、それから『家庭の医学』(朝日文庫、2006)。すべて柴田元幸訳。三階でそれだけ買って、二階に下りる。『私たちがやったこと』というタイトル作品は上記の「Folie a Deux」だ。

二階には『柴田元幸ハイブ・リット』(アルク、2008)という本があって、その中に上記の「私たちがやったこと」が収録されている。ほかはユアグローやオースターなどだ。同じ作品を三通り買っても仕方ないなと思いつつ、朗読CDつき、というのが気になって確認してみると、なんとレベッカ本人の朗読だということが分かって、一も二もなく買うことにした。レベッカだけでなく、収録されているすべての作品が著者本人の朗読なのだ。確かに、アメリカではプロモーションのために著者本人が全米に朗読ツアーに出るのがある種の作家の義務になっていると村上春樹が書いているのを読んだことがあったが、だからこそ著者本人の朗読がアメリカには普通にあるわけだ。そういう意味ではこれはなかなか買いの作品集だと思う。というわけで今日は4冊レベッカ尽くしの買い物だったのだ。本を買い終えるとなんだかパフェが食べたくなって4階のカフェに行ったが満席だった。検索機で原書も探してみたが丸の内店にはないようだった。パフェが食べられる店を探して新丸ビルへ行った。

柴田元幸ハイブ・リット
柴田元幸(編・訳)
アルク

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図書館から帰って汗をかいた服を着替え、丸善に出かけようとしていたら友人から電話がかかってきた。近況をつらつら話していると、いろいろと大変な状況のようだった。私の小説についていろいろ意見を聞いていたのだけど、そうだなと思うところがいろいろあった。というか、自分でも話しているうちにこういうことなんだろうというふうに自分の中の検証が進んだ。

一つは、自分の中には、子供のころから書きたいことがたくさんあって、それが作品として形を成して来なかったために、たくさんのものが溜まっているということ。そして、それがいろいろな形で今書いている作品に現れて来ているということ。しかし、10歳の時に書きたかったことを今書いても、今の私はもうすでにその作品の生命というかたましいのようなものを表現することはできなくなっている。10歳の時に書きたいことは、10歳の時に書いたほうがいいのだ。10歳の時に書きたかったことも、20歳のときに書きたかったことも、そしておそらくは30歳のときに書きたかったことも、今の私にはもう書けない。しかし、その書きたかったものたちが、今の私に書くことを強制する面があって、そういうものが書いているうちにでてくる。それは、いわば私の作品のあくのようなものとして残ってきてしまい、いろいろなところにこびりついている。それを何とかするためには、とにかく書くしかないんだと思う。書かれるべきだったものは書かれなければならない。書かれるべきだったもののたましいを成仏させなければならない。そして初めて、今書くべきものを雑味なく書くことが出来るのではないか。そんなことを思った。

もう一つは一見技術的な指摘。「女の人は、小さな袋を取り出して十本ばかり形のいいの(バラの花・筆者注)を選び、ぼくにくれた。」という記述について、彼女は、花をくれるなら紙に包んで束にして渡すならわかるけど、袋に入れて渡すのはおかしい、と指摘したのだ。そのことについて地下鉄の中で考えていたのだけど、考えてみたら私は花を買うときに、袋に入れてもらうというイメージが強いのだということに気がついたのだ。ちゃんとした花屋で買うならそうはしないけれども、西友やホームセンターで買うと花用のレジ袋にただ入れて渡される。それは花のために決してよくはないけれども、なんだかそのイメージで書いていたのだ。考えてみたら、花を育てている人がそんな雑なことはしないだろう。実際にはいるかもしれないが、小説の中でそんなぞんざいな扱いをしていたら読んでいる人は興醒めしても仕方がない。もちろん、そこでは想像力が欠けていたということもあるのだけど、より突き詰めて考えると私の暮らし方が「雑」であることが原因だと言うことに気がついた。

普段の暮らし方が、まあ忙しいこともあるけれども、雑になっている。丁寧でない。そういうことが小説にはそのまま反映されてしまう。私のそういう弱点には実はかなり前から気がついていて、私はそのことを「育ちが悪い」と表現していた。そういう一つ一つのことを丁寧にきれいにやる人に、私は憧れを持っていた。いや、今でも持っている。何というか、こういう神経質な文章を書いているから繊細な暮らしぶりなんだろうと思う人もいるかもしれないが、私の暮らし方などは実に雑だ、といつも思う。暮らしのディテールを省力化して、やりたいことをなるべくやる時間を確保して、と思っていたのだけど、それは「小説を書くこと」に関して言えばマイナスなんだ、ということを自覚した。

普段の行動を一つ一つ丁寧にやらないと、そういう人のことを書くことは出来ない。戯曲が書けて小説が書けない理由が今までよくわからなかったのだけど、戯曲は動作のディテールは役者の演技に任されているから、そうしたディテールまで表現する必要がない、ということがどうも大きい。芝居を作っているうちに、おかしいところは修正されていくし、楽日がはねるまで本当の意味で戯曲は完成しない。あくまで私の場合だが。しかし小説では、役者のやることも、演出のやることも、照明のやることも、音響のやることも、舞台監督のやることまで、すべて作家が一人でやらなければならない。作家はたった一人で読者の前に立たなければならない。

なるほどフィクションを書くというのはそういうことなのか、と思う。自分自身のしつけがちゃんとしてなくて、普段の暮らし方がいい加減で、それで繊細な文章を書こうと思っても無理な相談なのだ。そしてそうなっている一つの原因は、生き方自体にまだどこか投げやりなところがあったからだと思う。まあどんな生き方をしようと小説は書けると思うけど、投げやりな生き方をしているという自覚を持って、その生き方で何ができて何ができないかということまでちゃんと考えておかないとそのスタンスでの小説も書けない。自分を客観的に見る、というと微妙に違うのだけど、自分がどう生きているか、どう暮らしているかという自覚は持たないといけない。つまり、客観よりも主観が大事なのだ。自分がどう感じているかを客観的に見るのではなく、自分がどう感じているかを自覚することが大切なのだ。この違いは、実はかなり大きい。レベッカを読んでいてようやくはっきりしてきたことなのだけど。

これも最近気がついたことなのだけど、人は自分のことを客観的に見ることなど本当は不可能なのだ。客観的に見ていると思っている人は、特に理系の人に多く見られるのだけど、それは自分自身もそう思っているところは大きかったのだけど、そういう人は人から見ているとある種滑稽に見える。つまり、大体において自己認識がどこか欠落しているの二字分ではわかっているつもりになっているという、傲慢さから来る滑稽さだ。自覚のある人というのは、大体において謙虚だ。そして迷いがない。自分を理解している。自覚のある人間というのは、姿かたちがはっきりしている。主観的な把握に迷いがない。一見それが滑稽に見えても、説得力がある。見ているうちに、それもありかなという気がしてくる。そういう人間は強い。成功している人間ほど、実は直球なのだということ。それも友人と話したことだけど。

気がついたらもうすぐ10時だ。このブログを書き始めたのは8時前だった。そろそろ夕食を食べよう。

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