鳩山首相の存在の意味/教育における愛と暴力

Posted at 10/05/16

昨日帰京。昨日は早く寝るつもりだったのだが、ついネットにつかまってしまい、半分徹夜状態になってしまった。入浴して寝たのは四時過ぎで、もう明るくなっていた。起きたのは8時ごろ。BS-hiで9時25分から『Giant Killing』があるので、それが終わってから二度寝するならしようと。モーニングページを書いたり。TBSの「サンデーモーニング」で口蹄疫問題をやっていたので見た。もう少し他のチャンネルでも取り上げないものか。昨日はツイッターを見ていてついこの問題にはまってしまったが、口蹄疫の問題は、対岸の火事では済まされないものがあると思う。政治が機能していない最悪の例ではないだろうかと思う。

青山繁晴の番組がよくネット上で動画で公開されているが(違法かもしれないけど)、この問題をはじめ、一体誰が問題解決のキーパースンなのか、現在の鳩山内閣では全然分からない。官僚も動いていないし、現場の独立行政法人は仕分け対象。危機管理の体制が全くできていない。民主党政権というのは一度全部日本政府の仕組みを壊して作り直そうとしているみたいだけど、政治というのはいつ待ったなしの危機的状況が現出するか分からないのだから、全部が機能停止状態に陥ってしまったらどうにもならないのだけど、鳩山は実現不可能な普天間問題にこだわりすぎて他の問題も含めて全く判断停止状態になっているし、大臣は無責任、というか当事者能力が疑問視されるばかり。自民党政権時代も農水大臣は鬼門だったが、現在の赤松農相も相当ひどい。旧社会党の最もだめな例、上田哲の対応振りにそっくりだ。野党時代は政策通というか追及のエースみたいだった人たちが仕分けとか不急の仕事に忙殺されて危機に衆知を結集できない状態になっている。内閣もだめ、党は選挙のことにしか関心がない。日本のいちばんの不安定要因は鳩山小沢体制そのものだろう。とにかく危機においての当事者能力の不足は、阪神大震災と地下鉄サリン事件が起こったあの村山内閣のときの状態の二の舞というか、それ以下になっている。あの時はまだ自民党側に野中とか豪腕がいたが、今の三党連立政権はそういう人もいない。期待できる要素がない。国民が出来ることは選挙で現政権にノーを突きつけることだけだが、それまで三ヶ月、死に体が続くのでは日本の国自体が立ち直るきっかけをつかめない。

青山の番組を見て思ったが、口蹄疫問題だけでなく、対米関係も混乱している。オバマは鳩山を完全に見限っているが、アメリカ側も誰と交渉していいのか分からない状態で、北朝鮮の韓国軍艦攻撃問題の安保理対応(日本はいま非常任理事国)や普天間問題、北方領土問題をめぐるロシアとの対応の問題、中国海軍の日本近海における威嚇的姿勢など、山積している問題が動かなくなっている、という指摘は正しいと思う。オバマも早々に「爾後鳩山首相を対手にせず」にしてしまったという問題もあるが、これだけいうことがころころ変わる人物を相手に交渉などやってられるかと思われても、仕方ないと思わざるを得ないところがある。まだ鳩山首相にとっては、問題を理解するプロセスの最中にあるようで、要するに彼はまだ見習い気分なのだ。そんなものは野党党首の間に準備を済ませておくべきだったのだが。この大変な時期に見習いの首相を持たなければならないというのは、日本にとっては辛い時期ではある。見習いを卒業してまともなリーダーに成長してくれる見込みがあったら我慢の意味もある、のだが。以後、総理の座に着く政治家には彼を反面教師とし、他山の石としてもらうくらいしか、鳩山首相の存在の意味はないのではないかと思う。

葬送〈第2部(下)〉 (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社

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ああ。帰京して平野啓一郎『葬送』第二部下を読み始めたが、これはかなり面白くなって来た。大団円が近い感じ。岡田暁生『音楽の聴き方』を読み終わったので、中に取り上げられていた村上春樹『意味がなければスイングはない』(文春文庫、2008)を読み始めたが、これも面白い。シダー・ウォルトンという全然知らないジャズミュージシャンについてこれだけ読ませるというのは、やはり村上は文章巧者だと思う。

意味がなければスイングはない (文春文庫)
村上 春樹
文藝春秋

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間違いだらけの教育論 (光文社新書)
諏訪哲二
光文社

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それから、諏訪哲二『間違いだらけの教育論』(光文社新書、2009)を少し読んだが、彼は冒頭で教育という営為の根源的な暴力性について論じていて、これはちょっと考えさせられた。というのは、私が学校というところが心の底であまり好きでない理由について、腑に落ちる部分があったからだ。私は、子供たちを既存の社会の伝統を受け継ぐ存在にするためにはある種の強制(つまりある意味での暴力性)が必要なのは事実だし、多くの教育論がそこから目をそらしているから議論としての覚悟に欠けていると私も思っているので、共感を覚える部分はある。問題は、その暴力性にいかに自覚的であるか、いかにそれを制御し、節度あるものにするか、それには子供や社会に対する「よくしたい」「よくしてあげたい」という思い、つまり愛といっていいと思うが、それに基づく責任感のようなものが欠かせない。つまり教育問題の根本は愛と暴力の問題なのであって、そういうものを正面から取り上げることに日本人はテレがあるというか、上手く向き合えないできている、ということなのだと思う。私自身も全然向き合えていないなあと考えれば考えるほど思う。今はそういうテーマに取り組んでいる余裕がないが、また考えなければいけない。

もうひとつ、考えなければならないのは、学校が、少なくとも地域において最先端の場所でなければならないということだ。発展途上国において、また発展途上国だった時代の日本において、学校や教師が権威があったのは、学校が最も進んだ知識を得られる場所であったからだ。現代は、学校は社会に追い越されてしまっている。これは諏訪も指摘していることだが。時代への対処という点ではテレビやネットの影響力に後手に回っているし、学力や知識の点では塾に及ばない。学校が卓越性を持っているのは結局『価値』、つまりモラルの問題だけになっているが、人はモラルのみで生きる存在ではないから、学校が馬鹿にされるということは結局モラルとか価値とか倫理とかそういうものが馬鹿にされる現象と重なってきているということなのではないか。

モンスターペアレントというのも、結局は社会、つまり親の側がついに最終的に学校の持つ最後の牙城、倫理的な指導性というものを全否定しようという無意識的な社会の側の攻撃なのだと思う。学校という存在が、価値だけでなく知識も、社会的身分も、収入の保障も与えてくれる存在であった時代にはそういう現象は起こりえなかった。教員というのも、昔はいろいろな意味で一目置かれていたが、現在では「世間知らずのクセにうるさいことばかり言って勉強はろくに教えてくれない」感じになってしまっていて、それでも多くの親はそういう存在であっても学校の存在する社会的意義というものを承認して黙ってはいるけれども、消費者意識の高い一部の親からそれを否認する動きが出て来る可能性がないと思っているのなら甘い、といわざるを得ない。しかし実際、教員側にそういう自体に対する備えは全くないのが現状だ。戦後教育における学校という仕組みのあり方から、そういう事態は想定外だからだ。

国民教育と多様化とをどう両立させていくかというのが結局これから問題になっていくのだろう。というか、今までも問題になってきたわけだ。しかしそれが教育哲学の問題になってしまって、お互いに譲れなくなっているために、議論が完全に硬直化しているし、現場もろくに動けない。その歪みがどんどん拡大している。それをどういう形でサポートしていけばいいのか、これもこれからの大きな問題だと思う。

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