音楽を聴くということ、音楽について語るということ、そしてちょっとだけ音楽を演奏してみるということ

Posted at 10/05/15 Trackback(1)»

6時前に起床。最近、わりあい早く起きられるようになった。考えてみたら、昨日寝たのは12時前だ。6時間も寝れば自動的に目が覚めるということか。と言っても、実はもう少し前に意識は戻ってきていて(と言っても覚醒と眠りの境はあいまいだが)ぐずぐずしているという感覚が少しあってから起き上がって時計を見れば6時15分前、という感じなので、ちゃんと眠っているのは5時間強かもしれない。実は高潮期であるらしい。

気温は、午前5時で3.5度。大分冷え込んでいるが、今朝は外に出なければならない用事はないので部屋の中にいて、そんなに寒さは感じていない。木曜はモーニングを買いに行くし、金曜はごみを捨てに行くので、朝早くでかけなければならず、こう寒いと普段なら何でもないことでもけっこうきつい。冬に寒いのは仕方がないが、5月にこの寒さは本当に何とかしてほしい。っておんなじこと何回書いてるかな。

昨日、活元の会で先生に聞いた話を反復してみる。もう同じことを何度も聞いているし、何度も読んでいるのだけど、自分で自分をなんとかしようと思うほど、どうしても意識で体を統制しようとしてしまう。「活元運動という、体のことを体に任せる時間を持つことは、大変よいことです。」という、いわば当たり前のことの意味をもう一度考える。普段はどうしても意識の統制下に体を置く部分が多くなるのだけど、活元運動の時間だけはそれをやめて体に体を任せるようにする、と考えると、思考を止めやすい、ということが分かった。ずっと長い文章を書いていることもあって、こういうときというのは思考を休ませにくいのだが、この時間は思考を休ませる時間、と考えれば出来る、という感じだ。時間の観念に縛られているのを逆用する、という感じだが。

また、「頭をぽかんとする」ということと、「体の力を抜く」ということは同義ではないな、と実感した。「強み」というイメージを持ったまま活元運動をしてみると、わりと遠慮なく動ける。いままではけっこうそのあたりが堂々巡りをすることが多かった。昨日はいろいろな意味で得るところが多くてよかった。

今日は5月15日。日曜日だったら、5.15事件が起こった昭和7年と同じなのだが、土曜日だ。いや、それだけのことだが。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
岡田 暁生
中央公論新社

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岡田暁生『音楽の聴き方』読了。この本は大変いい本だった。私はずっと、音楽評論というものには敷居が高くて、なかなか読めなかったのだが、この本は面白く読めた。「教養」というものと、「音楽の聴き方」というものが、とても重なるところがあるからだろうと思う。もう一つは、最近ショパンの曲を大量に聴きまくっているということもある。これは『ピアノの森』の影響だが、『ピアノの森』という作品自体がある種の音楽評論になっているわけで、このコンテスタントがこの曲をこういうふうに弾いた、というのを絵で見、文で読みながら音楽を聞いてみると、なるほど、と思うし、「ききどころ」も的確に表現してくれているわけで、『ピアノの森』との出会いは自分にとって色々な意味で画期になりそうだと思う。音楽評論に興味をあまりもてなかったのは、クラシック音楽をあまり聞いていないからで、これだけまとめて聞いてみると、やはり人がどう評しているのか気になるし、そういうものを読む動機もできる。

まあこういうものはしかし、のめりこむ対象も結構ポイントがあって、私はロシア文学に関してはプーシキンにのめりこんで全集を読破したりしたが、ロシアにおいてはともかく日本においてはプーシキンというのは周辺的な存在で、やはりロシア文学と言えばドストエフスキーやトルストイを読んでないと評論を読んでもあまり面白くない。そういうこともあってドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』をなんとか読破したが、トルストイには手を付けられないでいるので、いまだにロシア文学の評論は読める範囲(読んで面白いと思う範囲)があまり広くない。

ショパンというのはクラシックの世界において結構中心的な存在だと思う。というのは、ショパンはピアニストでありピアノ曲の作曲家であるからだ。日本において(日本だけじゃないだろうけど)、聞く方はいざ知らず演奏する・習っている人口でいえば、ピアノはあらゆる楽器の中で最大だろう。もちろん学校で習うリコーダーとかをのぞいての話だが。音楽をかじった人はみなピアノを少しは弾くわけで、そのピアノのある意味での頂点のひとつがショパンであることは衆目が一致するところだと思う。ベートーベンなどの巨大な交響曲作家に比べれば「偉大」という感じはしなくても、日本におけるクラシック世界の中に占めるショパンの位置は、日本におけるロシア文学読者世界におけるプーシキンの位置よりははるかに大きいだろう。(まあそれは、プーシキンのためには残念なことなのだが)

ピアノの森(17) (モーニングKC)
一色 まこと
講談社

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教養世界での音楽の聴き方は、やはりドイツ音楽の主流が最も重要で、フランスやイタリアなんて軽々しい、という感じだったらしいが、大衆的(と言っていいのかどうか難しいが)な意味ではショパンは幅広いすそ野を持っていると言っていいだろう。実際、聞きだしてみるとショパンの音楽世界は広いし深い。その探索も、『ピアノの森』の力をずいぶん借りている。ピアノソナタ3番も第1楽章と第4楽章は早くから好きだったが、第3楽章のよさが最初はあまりよくわからなかった。『ピアノの森』でカイが演奏している場面を読みながら、「奇跡のように美しいピアニッシモ」ってこんな音だろうか、と想像しながら読むことによってこの曲の奇蹟のような美しさがようやく聞こえてくるようになった、という感じがある。この曲はまだポリーニとリパッティしか聞いたことがないが、ほかの演奏者でももっと聴き比べてみたい感じがする。話がずれたが、そういうわけでショパンを聴きこんだということは音楽評論で読める範囲がかなり広くなったという実感があったということだ。

もちろん、バロックもよく聴く(NHKーFMで『バロックの森』という専門の番組があることは大きいと思う)しモーツァルトもベートーベンもブラームスも聞く。学生時代から20代のころよく聴いていたのはサティ、ムソルグスキー、マーラーなんかだった。芝居をやっていたから、芝居で使われた音楽は確かによく聴いた。しかしそれは音楽「も」聴くという程度のことで、音楽「を」聴く、という聴き方ではなかったなあと思う。音楽は感情と密接なかかわりのあるものだから、どうしてもポピュラーミュージックの方にひかれていたということもある。

ああ、今日はずいぶん音楽について書いているな。私は、高校の時の芸術の選択は美術で、それ以来美術については自分なりに見ているし、どういう絵が自分は好きでどういうものはあまり好きでないかとか、自分なりの目を持っていると思うのだけど、本当は中学時代は音楽の方が得意で、美術は成績もあまりよくなかった(幼稚園の頃、ヤマハ音楽教室に通ってた貯金があったんだろうと思う)。それでも高校で美術を選択したのは、中学時代にマグリットの絵に出会って衝撃を受けたからだと思う。こういう衝撃を生み出す美術というものをもっと知りたい、と思ったのだと思う。音楽は、中学時代は井上陽水とか、高校時代はビートルズ、ポール・マッカートニーとかからハードロック方面にウィングを広げて、という感じでクラシック畑で感動した経験がなかったから、学校教育で音楽を勉強したい気がしなかったのだろう。

それでもはじめてクラシックをまともに聴きたいと思ったのは伊藤重夫『チョコレートスフィンクス考』でマーラーの9番の第4楽章を聴くくだりが出てきたことで(またしてもマンガがきっかけである)、私も実際にレコードを買って何度も何度も聴いて、その感じがどういうことなのか少しは分かった気になったのだけど、まああまりに範囲が狭かった。それからやはり「教養」として少しは聴かないといけないと思い色々な作曲家のものを聴いたが、聴いて面白い、というか少しは分かった気になったのはサティとかムソルグスキーだけだった。サティーも元々は芝居で使った曲だったな。

まあなんというか、そういうわけでいま、何十年振りかで音楽、クラシックの世界というものに再び出会おうとしているのかもしれない、と思うと嬉しい。歌舞伎を見るようになった頃も、こういうワクワク感があったな、と懐かしく思い出す。

というわけで、岡田暁生『音楽の聴き方』という本は、そういう個人的な音楽体験や、自分が今まで勉強してきたヨーロッパ史というもの、社会論・芸術論というものを有機的に結び付けて、それらのものをふたたび意味あるものにしてくれる、大変よい本だった。色々な人にお勧めできるのではないかと思う。

出会いということでいえば、「クラシック音楽」との出会いということと同じように大きな出会いなんじゃないかと感じているのが『ドラッカー 時代を超える言葉』だ。まあだいぶ長くなったので、こちらの方はまたの機会にしようかと思う。この本に関しては、いちいち考えさせられ、考えた末に納得させられることが多い。こんな本は一生でそう何度も出会うものではないという気さえする。ま、しかしそれはまた。

朝食後、ダウンロードしたショパンの楽譜を、少しエレクトーンで弾いてみる。運指が速くて聞き取れない曲など、弾いてみて納得したり。それからワルツの作品64の2の右手の部分を10小節ほど弾いてみる。#が四つついていることもあり、楽譜を読み取ること自体が大変なのだが、嬰ハ短調だからホ長調と同じで、鍵盤上ではドとレとファとソを一つ右の黒鍵を叩けばいいのかとか、考えながら弾いて、だいぶ何度も弾いてようやくそこまでいった。(まだ左手の楽譜が読めない・笑)まあとてつもなくぎこちないのだが引いてみて和音の美しさには改めて驚かされる。楽譜に運指が書いてあって、黒鍵二つの二度の和音(つまり不協和音だが)の美しさに感動したり、また、ショパン自身がこの黒鍵をこういう風に叩いていたのかと思うとそのこと自体に感動したりした。阿部謹也がはじめてラテン語を習ったときに、この同じ文章をカエサルが書いたということがどうしてもぴんとこず、しばらくしてじわじわと感動した、というようなことを書いていたが、ものを学ぶということの喜びというものには、そう言うものがあるなと思った。まあ、たかが二つの黒鍵の和音に過ぎないんだけど。

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