新学期の風景/細川護煕と「へうげもの」/「ピアノの森」:神話のような少年が弾く人間の妖精的な部分としてのショパン

Posted at 10/04/08

昨日。午前中は車で松本に出かける。塩尻峠がすごく霧が出ていて、あまりスピードを出さずにゆっくり走ったので時間が思ったよりかかり、到着がぎりぎりになった。体を見てもらって、このところの体の各所の不調について尋ねたが、「疲れていた」とのこと。確かに疲労度は高かったと思う。活元運動などし、また頭・肩・胸・を開き、骨盤を開いて、おなかをゆっくりとどっしりとするようにじっくりと自分の体と向き合うようにして、冬と春先の疲れを抜いて、気を充実させるようにしようと思う。

帰りに塩尻のワイン専売所に寄る。ワイン専売所と言ってもほかの農産物もいろいろ売っていて、母は野菜など買ったが私は自家製酵母のパンを買ってみた。まあまあかな。今のところ、富ヶ谷のルヴァンのパンより美味しいものはまだない。いろいろ食べ回ってみると面白いと思う。

専売所を出て、いつもなら靴屋の方に抜けるのだが、新しい道路が出来ていたのでそちらの方に行ってみた。広くて気持ちいい道で、19号の高出の交差点の少し松本よりのところに出る。この交差点は左右の車線が分岐しているので、緑が丘南の交差点よりも19号に出やすい。行きはともかく、帰りはこの交差点を使った方が気持ちよく走れるなと思った。高出の交差点は松本方面からくると20号(東京方面)に信号を待たずに左折できるから、いい感じだ。

帰ってきて昼食を取り、部屋で少し休む。3時半に職場。最初から仕事が多い。まあ、新年度だから仕事が忙しいのはいいことだ。例年は、新年度のスタートダッシュがあまりできず、途中から仕事が忙しくなるというパターンで春夏が営業的に「乾季」の状態になるとよく父が言っていたが、今年はわりと順調にいっている。

仕事は10時まで。夜は冷え込んだ。帰ってきて夕食、入浴、就寝。わりとよく寝た。起床7時。少しぐずぐずした感あり。モーニングページを数行書いて、職場に出て資源ごみの処理。前回出さなかったので今回は少したまっている。それに加えて「その他の紙」を一袋分処理したので、少し手間がかかった。新学期になって、新しい高校生が道幅いっぱいに広がって歩いているので、この時間は少し運転しにくい。高校生もだんだん慣れてきてそういうこともなくなってくるのだけど、東京の電車が新入生や新社会人で混むのと同じように、田舎は道が混む。これがゴールデンウィークを過ぎると空いてくるのがいつも不思議なのだけど。

行きがけに「モーニング」をローソンで買う。朝食後、自室に戻って「モーニング」を読む。今週はすごく充実している。

表紙は「へうげもの」。巻頭対談が作者の山田芳裕と作中の細川幽斎の絵柄のモデルになった細川護煕元首相。場所は細川家の宝物が保存されている永青文庫。これは面白い。今まで知らなかったエピソードが語られている。一番おもしろかったのは、細川忠興が主催した茶の湯に呼ばれた幽斎が懐からナマコを取り出して茶碗に放り込み、「うまいうまい」と言って飲んだという話。全く「へうげもの」に出てくるような「!!?」なエピソードだ。いわれてみてそうだなと思ったが、彼ら戦国武将はいつ死ぬか分からない中で、明日の戦で死ぬかもしれないという日にも茶会を催していたわけだ。そういう意味では常在戦場というか、毎日が非日常であったので、そんなことをしても平気の平左だったんだろうなと思う。心得上はともかく、明日死ぬかもしれないという状況の中でお茶をたてる茶人は平和な時代にはいないわけで、そのあたりが茶の精神の峻厳さのようなものが欠け、形式に流れる大きな理由なんだろうなと思う。しかし、実際にそんなこと言っても無理なわけで、でもそういう状況の中で茶を点てていたということを知っておくことは大事なことなわけで、そういう意味では「へうげもの」という作品はよくできていると思う。対談の完全版はモーニング公式サイトで公開されているということなので、あとで読んでおこうと思う。

「へうげもの」。小西行長の商業立国の夢。若き小堀遠州の数寄。織部屋敷から取ってきた石で造作していたのがバレル。この辺先が面白そうだ。ストーリーの結構が形を取ってきた。「Giant Killing」。練習試合で見えてくるもの。構成としてよくできている。杉江の、「技術のある選手が揃ってるチームよりも個々の技術はそこそこでもチームとしての共通意識がしっかりしてるチームの方が強い」という言葉が全体を説明している。オシムに影響されて「ジャイキリ」がはじまった、ということを考え合わせると興味深い。逆に、昨日のセルビア戦の日本代表の体たらくが際立ってしまうが。頑張ってほしいものだ。「バカボンド」小次郎を巡る情勢が険悪に。

「ライスショルダー」ボサンとおこめの両者の見開きどアップがいい。「特上カバチ!!」児童虐待編。おいおいえらいもんがはじまったな。親子関係、夫婦関係がテーマという感じ。栄田がまた主役級になりそう。「シマシマ」ついに雑誌掲載。「北のライオン」小鳥のような女の子。また出てきてほしいなこの人は。「神の雫」物議を呼ぶスパークリング。「エンゼルバンク」現在の日本の形も、明治維新から見直してみるとよくわかるという話。そういうことをいう人はなかなかいないのだけど、いいところを見ていると思う。夢を語るということはドンキホーテになるということ。誰にでもできることではない。その通りなんだよな。

「ピアノの森」。今週はカイの弾くマズルカとポロネーズ。マズルカは作品50の1から3。先週50の1を弾き、今週は50の2と3なのだが、読みながらアシュケナージのマズルカをかけて聞きながら、涙を流した。森へ。すべての聴衆が感動するなか、カイに厳しい点をつけた審査員ピオトロは母の弾いたマズルカを思い出し、厳しい点を点けると心に誓いながら、思わず涙をこぼす。劇的な表現。大地が喜んで踊りだしそうなカイの演奏。阿字野はそれを聞きながら、「私も知りえなかったマズルカの心」とカイが一体だ、と思う。このあたりは心底ぞくぞくする。「ピアノの森」でカイの設定を最初読んだ時から、この少年はまるで伝説のような、神話のような存在で、それがこの世に気まぐれに表れたという感じを強く持っていたのだけど、久々にその面が強く描かれていて、少し読むだけで泣けてくる。作品が展開しそうになってもまだ曲が終わってないと、その曲を聴くために何度も同じページを読み直す。すると、今日がどんどん心に沁みこんできて、また涙が出てくる。すばらしい。作者は、このページが描きたいがために膨大な物語を作っているんだなと思う。いや、本当は違うのかもしれないけど、そう思わせるだけの素晴らしさが、混じりけなしの感動がここにある。

ショパン:マズルカ全集
アシュケナージ(ウラディーミル)
ポリドール

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作品50の2は楽しげな曲で、本当に自然の中からわき立つのような曲なのだけど、50の3は短調で、その透明な悲しみが胸を打つ。アシュケナージを聞きながらカイのピアノの音を想像しているのだけど、本当にこういうふうに弾くピアニストがいたらどんなにかすごいだろうなと思う。マズルカが終わって会場がざわざわしている。次はポロネーズ6番、いわゆる「英雄ポロネーズ」なのだが、なぜか今週号にはその曲名が書いてない。先週から読んでいればそれはわかるのだけど、今週だけ読んだ人は戸惑うだろうな。この描写は、ポロネーズを聞きながら出ないと、あるいはこの曲をすっかり知っていないと、本当には面白くないだろう。でも今、聞きながらでなく読み返しているけれども、読むだけでもやはり面白い。くるぞくるぞ、あれ?とか、緊張感のないところに「バーン!!」とか、そういう表現が一色まことはすごくうまい。絵柄もストーリーも、本当に完全にコントロールが利いている。

ショパン:ポロネーズ集
アシュケナージ(ヴラディーミル)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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まあ言えば、先に書いたようにカイは妖精のような少年なのだが、その妖精のような少年がこの地上でショパンに出会い、それを自然の声のように、天上の音楽のように表現していく。それをこのように書けるのは、本当に技だと思う。私は、物語を書くときにその存在の妖精性のようなものを描くのは自分なりにこうしたいというのがあるのだけど、その妖精性を持った存在がアートという人間存在の持つ妖精的な部分とであってそれをさらに大きな素晴らしいものにしていくという表現のすごさ、素晴らしさというものにまでまだレパートリーが広げられていなくて、「ピアノの森」を読んでいるとそういう部分に素直に脱帽する。本当にすごい。

第一主題を一回目はノーブルに。二回目はフォルテで雄々しく。いうのは簡単だが、それを本当にそうだなと共感するように表現することがいかに難しいことか。中間部に移るところでカイの表情が変わり、ジャンがゾクっとし、「森へ・・」という言葉とともにものすごいクレッシェンド。エキエルトの表情が今まで見たことのないデフォルメ。コーダとともに、まだプログラムの途中だというのに、観客から「ナシャ・ポルスカ!!(私たちのポーランド!!)」のスタンディングオベーション。そして次回はソナタ3番へ、という流れ。今週は本当に堪能した。この余韻を何度も味わいつつ、次の二週間を待つことが出来るだろう。

私も思ったのだけど、「ポーランドのショパン」であることが評価基準だ、ということがずっと書かれてきたのだけど、自然というもの、あるいは人々の心というものはどこの国であっても関係ない部分、世界共通の部分がある。カイの弾くマズルカは徹底して自然を描写し、心を描写していくことでポーランド人に「私たちのマズルカ」を聴かせるように見せて、実は世界の人々の心の底にあるもの、あるいは自然そのものを表現している。それは自然の中、森の中、森のピアノを弾いて育ったカイにしかできないことだろうなと、思っていたのだけど、まさに今週の表現はそういうもので、私の「読み」が間違っていなかったと改めて思った。本当に、この作品は、ストーリーの流れと一体化して読める。

「英雄ポロネーズ」は1842年の作品だが、「進軍していくポーランド軍の雄々しさ」を表現している、というものらしい。いやこの回を読んだ印象なので、本当にはよく知らないのだけど。でも当時、国を失い、ロシアに支配されていたポーランドの人々にとって、このショパンの曲群がいかに心の支えになったかということは想像に難くない。そのかっこよさへの憧れを、遺憾なく表現できるカイの技術とイマジネーション。アシュケナージがピアノからフォルテの流れで弾いている中間部を、カイはフォルテからフォルティッシッシモへの流れで弾いているのだという。アシュケナージでさえこの部分はミスタッチがある。次にポリー二の英雄を聴いてみると、基本的にすごくノーブルで、余裕があって、本当に盛装した騎士たちが踊っているようだ。二回目の方が第一主題が強い、という表現はポリー二から取っているのかもしれないな。中間部も森を思わせるところがある、ポリー二には。中間部の後半も、アシュケナージよりずっと強く弾いている。いやあポリーニは聞いた後すっきりするなあ。次にルービンシュタインを、と聞きだすときりがないので止めておくが、また読み返すときに聞こうと思う。

ショパン:ポロネーズ集
ポリーニ(マウリツィオ)
ユニバーサルクラシック

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「N'sあおい」。いろはさん。「なごみさん」。前職が明らかに。これもほぼ予想通りだったな。まあ極道じゃなかったら、これの他にはこういうコワモテの職種はありませんが。(笑)「誰も寝てはならぬ」。猫に認められるということ。(笑)「今週この落語家を聴け!」。桂三枝が創作落語の雄だということは知っていたが、そのレパートリーを東京の落語家もやってるということは知らなかった。新たな古典づくりと言ってもいいわけで、三枝という人はあとの時代から見ると実はすごく巨大な存在になるかもしれないと思った。「かみにえともじ」「ひとりごはんのせなか」も面白かった。

というわけで、今週号の「モーニング」、私的には久々の充実、充実、エリア大充実(違)。はあ、今11時40分。モーニングについて1時間40分も語ってしまった。

いやあ、読んでいると、自分がなぜ「ピアノの森」にこんなに弾かれる、もとい魅かれるのか、いろいろ理由が分かってきた。自分が書きたくて、でも書けそうで書けないものを描いているからなんだ。昔っから私はバイブルになるマンガというのがいくつもあるのだけど、本当に「ピアノの森」は目下の大バイブル。こういうものが書けるように、精進したいと思う。

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ショパン:ポロネーズ全曲
ルービンシュタイン(アルトゥール)
BMGインターナショナル

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ポロネーズ6番、ルービンシュタインはペダルの使い方に特徴があるな。歯切れのよい音を弾く。中間部のゆったり具合があまりゆったりになりすぎないで、そのあたりが気持ちいい。全体として聞くと、私はルービンシュタインの演奏が一番好きかな。コーダの余韻が少しあっさりすぎる気はするけど、それ以外の部分ではルービンシュタインが一番いい気がする。つけたし。

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調子に乗ってルービンシュタインのポロネーズ5番を聴き直しているが、5番も私はルービンシュタインが好きだな。この音をなぜこのように弾くのか、ということをいちいち説得力を持って弾いてくれていて、そのルービンシュタインが語る言葉に、私自身の気持ちをうまく乗せることが出来る。ちょっとわかりやすすぎるとか、ある意味軽いあざとさを感じる人もいるかもしれないという気もするが、私はそういうものがけっこう好きで、それは私自身の資質と関連しているんだろうと思う。やはりわからせたいのだ、私の好みとしては。余白を残して味わい深くするという手もあるのだけど、私がそういう表現をやっているときはたいてい逃げで、うまくできないからそうやっていることが多く、ルービンシュタインを聴いているとそういうことがよくわかってくる。こういうふうにやれたらやりたいんだなと思う。もちろんその先にもまた違う表現の世界がある、ということはそういうこととして思うけれども。あああ、中間部から主題への復帰の仕方が、またまた素晴らしいな、ルービンシュタイン。ショパンの意図も分かるし、弾き手の意図もすごくよくわかる。その息遣いや工夫。やはりピアノというものは人間が弾くもので、その弾いている人間の、技術や心、意図や心の動き、デリカシー、感情の、ということは体の伸び縮み、といったものすべてが反映されている。その存在すべてを見せて、その存在すべてを見せられるという意味では、ピアノはやはり舞台芸術で、それはたとえ録音であってもそうなんだなと思う。私は手元に今アシュケナージとポリーニとルービンシュタインの3枚しか持っていないけれども、ルービンシュタインのピアノがたぶん、一番好きだな、と思う。

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by Luke Peterson

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