訓練不足が作った私/ハプニングかシンクロニシティか

Posted at 10/03/30

気持ちのいい朝だ。だいぶ冷え込んだけど、よく晴れている。今朝は4時半ころに起床した。それより前もかなり寝床の中でぐずぐずしていたので、意識が睡眠から覚醒に移行したのは、以降状態がかなり長かったと思うけれども、4時ころだったかもしれない。

昨夜はだいぶ疲れていて、10時ころには寝たと思う。その前に、久しぶりに熱い風呂に入った。そのせいか、睡眠中もだいぶ汗をかいて、それが爽やかな感じにつながっているのではないかと思う。いずれにしてもすっきりと起きられた。起きて活元運動をして、5時15分ころからモーニングページを書き始める。昨日、いろいろ考えていてもわからなかったことが朝、モーニングページを書きながら考えているといろいろと分かってくることがある。問題解決、ということについて『KJ法』というものを、私は若いころから知っていて、少しずつ使っては来ているのだけど、研修を受けたのは入門コースと基本コースだけだし、どうも私は人から習うのが、特にマニュアライズされたものを習うのが、なんにつけても苦手なので、なんとなくずっと放置していたのだけど、でもいろいろな問題について考えるときに、けっこう「これはKJ法ではどの段階に当たるのだろう」とか考えながらやっているときも多かった。まあ、今考えるとそれについての理解はすごく原始的な当てはめであったとは思うのだけど。

KJ法―渾沌をして語らしめる (川喜田二郎著作集)
川喜田 二郎
中央公論社

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最近、自分のことが少しは見えてきたせいか、KJ法の考え方自体も、だいぶそれなりに分かるところも出てきた。というか、昔は読んでいても目が空回りしていて、何が書いてあるのかも理解できてなかったんだなと今にして思う。川喜田二郎『KJ法』(中央公論社、1986)は今まででいちばん読み返した回数の多い本の一冊だと思うけれども、大著だしそのときそのときで必要な部分が違うので読み返す場所も違う。でも最近はやっと、ああこういうことだったんだなあとか、なるほどそうだなあとしみじみするようなところがだいぶでてきた。まあ突飛なたとえに思われるかもしれないが、英文法を初めて理解した気になったときに、「ああ、こういうことだったんだなあ」と思ったのだけど、その感じに近い。

何というか、私は頭の中で見当違いの格闘をけっこう長期間にわたって繰り広げていた人なので、「自分の中にない体系」をちゃんと把握するということが苦手なのだ。人から教えられるのが苦手だ、というのはそういうことなんだが、つまり「自分の中にない体系」を噛み砕き、飲み込んでいくのにすごく時間がかかるので、人のペースに合わせられないのだ。まあ初めてそういうものにぶつかったのが中学生のときの英語だったわけだけど、めぐり合わせの悪さもあって飲み込むのには本当に時間がかかった。

いや、そうじゃないな。それはたぶん小学生のころにもう出会っている。つまり、スポーツというものだ。自分の中にない動きの体系を身につけるのが私はとても苦手だった。運動神経が悪い、と言われたし思っていたけれども、なるほどそういう意味で言えば、知的な分野での運動神経というか、無心な状態から人の言いたいことを察知して今までにない心や頭の動き方をしてみる、という神経の使い方が出来なかったんだなと思う。結局、自分の好きなものにのめりこむ体質なので、それ以外のものに頭や心やからだをどう使っていくべきなのかという訓練が出来てなかったということなんだなと思う。簡単に言えば、いろいろなことの体験不足、いろいろな感情の経験不足、ルールに基づいた体の使い方の訓練不足、ということになるんだろう。まあでも逆に言えばそれがある意味での(特に身体的な)自然さを大人になっても保っていた大きな理由でもあったと思うし、まあそんなことは一長一短で、そういう訓練の足りなさ=自然さの保持がある意味今の私を作ったとも言えるわけで、ある意味神の摂理であったと言ってもいいんだと思う。後ろ向きにとらえることも出来るが、前向きにとらえたほうが楽しい。

運とツキに好かれる人になる 図解 雀鬼「運に選ばれる」法則76
桜井 章一
宝島社

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まあそんなことで、書きたかったこととだいぶずれてしまったのだが、野口整体の諸書、キャメロン『ずっとやりたかったことをやりなさい』、桜井章一の諸書、とくに『運とツキに好かれる人になる』、禅の諸書、特に『碧巌録』についで、『KJ法』もだいぶ自分が生きるのに常に振り返り参照するものとして使える力がついてきたような気がする。上に上げた諸書はどれももちろん完全に理解できたとかものに出来たというものではないしどれもまだまだまだなのだけど、それでもこれらの本には自分を生き伸びさせ、自分の人生を生きるに足るものにするための発見に満ちた(これから見つけていくべきもの含めて)作品だと思う。まだこれからもそういうものがでて来るだろうし、今まですでに出会ったものの中にも見ているけれども見ていない、読んでいるけれども読んでいないものがあるんだろうと思う。

今回自分の発見は、自分が書きたいこと、書こうとしているものが自分の自己や人生というものの探究そのもので、それをいろいろなものに触れつつ書いていければいい、ということだったのだけど、一体この発見がどういう性質のものか、ということについてまた迷ってきて、それで昨日から『KJ法』を読み返していたのだ。この発見は、第3ラウンドの本質追求の結果だと思っていたのだけど、そのあとの判断・決断・方針決定・目標設定(構想計画)・具体策との兼ね合いがよく分からない。というか、判断とはどういうもので、決断とはどういうものか、また方針決定というのはどういうものか、目標設定とはどう違うのか、ということについて考えあぐねたりした。

まあ、判断というのは結局、問題意識に対して現状を把握し、その底にどんな問題が横たわっているのかという本質を追求してああこういうことだったんだ、これは問題だ、と思うのが判断であり、これは何とかしなければならない、何とかしよう、というのが決断であり、把握された問題の本質(大概複数ある)を解決する、と決めるのが方針決定であり、どういう目標を持って取り組めばいいのか、と考えるのが構想計画であり、そのためには具体的にどうすればいいのか、と考えて決めるのが具体策決定、ということになる。

つまり方針とは理解された問題を解決する、という決断とともにあるもので、つまりはより深まった問題意識とより強化された問題解決の意志、その向けられる方向性ということになる。「問題を解決するぞ!」「おー!」ということだろう。このへん私はどうも空理空論めいたものに感じる傾向があってあまり今まで重視してこなかったのだけど、「決意の内容を明確にすること」、と言えばいいのかもしれない。方針というものを空理空論的に語る人が多いからそういうものに惑わされていたんだなと思うけれども、自分がそうしなければいけないわけではないのだ。

目標設定というのは、どうもテストで何点取るかとか営業で何台売り上げるとかどの大学に合格するとか言うような、具体的なレベルでの話を考えてしまうが、まあそんなことでもいいのだ。なるべく具体的に、こういうふうになればいいなあ、ということを検討する。実態からかけ離れたことを夢見ても仕方ないし、この時には現状というか、そこにある存在そのものを尊重したうえで「こうあれかし」ということを考える。私はこのへんでどうも突飛なことを考えてしまう傾向がある気がするが、現実的に意味のある目標がちゃんと決められればいいと思う。これは、問題の大きさや深刻度、またその状況が持つポテンシャリティなどによって「最もよい目標」というものは異なってくるだろう。「何が目指されなければならないか」という方針こそが、その最大の目安になるだろう。

目標が決まったら、具体的にどうするかを考える。東大合格が目標ならセンター何点、二次試験で英語何点数学何点というように具体的な目標を決めてさらにそのためにどういう勉強法をしたらいいかというようなことを考える、ということになる。その具体策にそって毎日の勉強の手順を決め、勉強を実行に移していけばいい。

まあ、今考えながら書いたが大体こんな感じの理解でいいのではないかと思う。方針から目標設定の間に実はけっこう溝があるんだなと思う。ここでいかに創造力と想像力、つまり構想力を発揮するかが問題解決の成否と成功の度合いを決めることになるだろうなと思う。

自分の決定はいろいろなラウンドに関連していて、結局これと言い切れるものではないなと思ったのだけど、まずは問題意識は大体はっきりしたといっていいと思うし、そうなると次の第二ラウンドのことをもう一度考えてみればいいということなんだろう。

桜井章一『運とツキに好かれる人になる』に、「違和感を感じる力が大事だ」という話が出てくるが、違和感というのはKJ法の考え方でいえばR2状況把握の「何だか気にかかること」ということになるんだなと思った。もちろん気にかかることには違和感だけでなく、桜井の言う「気分のいい体験」も含むべきだろう。この当たりから、KJ法の「探検の五原則」というものについて考えてみた。

1.360度の視角から 2.飛び石伝いに 3.ハプニングを逸せず 4.なんだか気にかかることを 5.定性的にとらえよ

というのが「探検の五原則」なのだが、探検によって拾い出すべき対象は4の「なんだか気にかかること」なので、私としては自分がものを書く上でこういうふうに言い直してみたほうが考えやすい、と思った。

「なんだか気にかかること(違和感)」を意識して記録し、ひとつのことについていろいろな角度から考えて、つまり言葉であれば何を言いたいのかをいろいろ考え、現象であればその現象の意味するところをいろいろな角度から考えて見て、問題、あるいは違和感に関係のありそうなことを飛び石伝いに探していく。このときに、そのときに探してはいないがあるといいものが向こうからやってくることがある。それが「ハプニング」であり、のがしてはならない。

これは、実はキャメロンのいうところの、というかもともとはユングのいうところの、「シンクロニシティ」というものなんだと思う。川喜田はそれを「偶然起こる」ものととらえているが、西欧人であるユングたちが「偶然に見える必然」ととらえているのは面白い。というか、彼らは神の摂理とか運命の演繹性というものをどうにかして証明したいと言う欲望を持っているんだろうなと思う。その当たり川喜田はあっさりしているが、逆にいえばこれは「天が下に新しきものなし」ということで、別に何が起こっても不思議ではない、とおおらかに受け入れていると考えていいんだろうと思う。廓然無聖である。こればっかだな。

まあそういうものたちを、こころで感じたように、あるいはからだで感じたように、言葉で書けばいい、重要性をあたまで数値的に判断するのではなくて、こういうふうに感じた、ということをそのまま書けばいいということになる。特に、私は人のこころに届く文章が書きたいのだから、そういう姿勢での記録というものが大事なんだと思う。

まあこんな感じで、まずは自分の書きたい、考えたいネタは何なのかということを探すことから初めて、それについて少しずつ書いていけばいいんだなと思った。人の心に届く文章を書きたいと思う。これが方針。

昨日は夕方日本橋に出て、プレッセや高島屋で自然食品がどれくらいあるかを見た。高島屋の地下にはナチュラルハウスが入っていて、そのほかにも面白そうなものがいろいろあったが、夕食のネタに何かいいものがないかと思い、結局「吉兆」の胡麻豆腐を買った。美味でした。そうそう、思い出したがお昼にまた砂町銀座に出かけて、昭和屋という自然食品の店でお米とマヨネーズと草もちを買い、肉屋でコロッケとメンチを買ったんだった。昼はメンチ、夜はコロッケを食べた。日本橋ではそのあと丸善に行って、読みたげな本を探したのだけどどういうものがいいのか見当がつきかねていた。最近、自然食とショパンのピアノのこと、あとは「ランドリ」に関心が偏っていたので、何をどう探せばいいのかわからなかったのだけど、なんとなく文庫の書棚を見ているうちに面白そうなものがたくさん目に付いてきた。何冊も何冊も立ち読みし、結局二冊買った。本屋で、全く未知のものを目がセンサーになって「多分面白い匂いがする」ものを買ったのは久しぶりな木がする。いつもは大体あたまで選んでいることが多いので。

実感的人生論 (中公文庫)
松本 清張
中央公論新社

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買ったのは、松本清張『実感的人生論』(中公文庫、2004)と三島由紀夫『文章読本』(中公文庫、1973)の二冊。文学書だから、というより立ち読みして面白かったから、という感じか。いずれにしても小説でない、エッセイのようなものを読みたいと思ったので(自分が今書きたいのもそれだから)こういう選択になったのだと思う。これと、アマゾンで注文していたのが即届いた加藤唐九郎『陶芸口伝』(求龍堂、1979)の三冊が、今週の読書の対象になるなと思う。

文章読本 (中公文庫)
三島 由紀夫
中央公論社

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陶芸口伝 (1979年)
加藤 唐九郎
翠松園陶芸記念館

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