結局私が書きたいことは

Posted at 10/03/29

今日も肌寒い一日になりそうだ。もうお昼になる。今日は朝からものを書きながらいろいろ考えていて、今とりあえずどういう文章を書きたいのかということがだいぶ分かってきた。

私はどんな本を書きたいんだろう。多分、読む人がなんとなく読みながら、笑ったり、本当にそうだな、と思ったり、これはやってみよう、と思ったり、見てみたい、読んでみたいと思ったり、私の文章を読んだあと、読んでよかったなあと思えるようなものを書きたいんだろうと思う。つまり、それは、座談にとても近いものかもしれない。

それには何が含まれるんだろう。人生に対する洞察、ユーモア、考え方、あるいは考え方の提案、面白いものの紹介、新しい知識、新しい希望、こういうことを語ってくれる友達がいたらいいな、と思うような内容の文章を書いてみたい、と思っているんだろうと思う。

それはエッセイというべきか。今までいろいろな本を読んできて、特に高校生のころ、面白いと思ったのは週刊誌に連載されていた上前淳一郎のエッセイとか、司馬遼太郎の小説でない文章、星新一のエッセイ。星新一は中学生ころから読み始めたが、ショートショートよりも彼の人柄や考え方が現れているエッセイのほうがより面白く、彼のショートショートを読み始めたのも彼のエッセイの中で触れられている内容を読んだのがきっかけだった。最近の作家たちのエッセイというのはそんなに面白いと思うのはない。なんか近視眼的な感じがするからだ。あるいは妙な思い込みに支配されていたり。私は、そういう「偏った」感じのする文章というのがあまり好きではない。

見通しの聞く、晴れ晴れとした、スカッとした、爽やかな、風が通り抜けていくような、自我の暑苦しさをあまり感じさせない、また頭脳の迷路にも入り込んでいない、進むべきときに進み、止まるべきときにとまり、読むものを自分の部屋に招いて引っ張り込んでおきながら、最後には「君はどう思う?」とつき放し、面白いなと思いながら楽しく自分のことについて考えられる、そういう文章が好きだ。昔のエッセイは、書く人も読む人も対等な感じがして、中学生や高校生のころに読んでいると大人になったような感じがして嬉しかったものだ。最近のエッセイというのは、人を導くような、人にヒントを与えるような、そういう「与える」という著者の姿勢が出すぎている感じの文章が多いと思う。私は、そういうものを書きたいとは思わないし、読んでいてもあまり楽しくない。人から教えられることも、押し付けられることもあまり好きではないからだ。

最近売れる本というのは、どうも説教臭いものが多い気がする。みんな、人の言葉に頼りすぎなんじゃないだろうか。「俺はこう思うけど君は?」というのが友達の会話だろうし、それは昔も今も変わらないんじゃないかと思う。書き手が読み手と「友達」であることを志向するならば、それははずせない書き方だと思う。

読み手は大人扱いされなければならない。それによって人は自立できる。自立しない人間が多い国は、崩壊していくばかりだろう。文章がそれを加速させてはならない。本当は自立したいのに自立できないという人間は多いかもしれないけど、何かのきっかけがあればそう難しくはないはずだ。自立というのは結局、自分の頭で考えることに過ぎない。自分の頭で考えて稼ぎ、自分の頭で考えて自分も人も成長させ、自分の頭で考えて行動すればいい。判断を人に任せるのは効率的に見えるけれども、結局人の過ちの結果を自分もかぶることになる。それで批判だけすればいいと考えるは二重に効率が悪い。

何というか、自分が組織で、その一員として下のほうで働くことが出来なかったのは、あまりにその組織が馬鹿げた判断と決断、その実行を繰り返し、また批判者は批判するだけ、いかにその実行を妨げるかということのみに憂さ晴らしをしたり、全体として馬鹿馬鹿しくて仕方なくなってしまったからだ。自分に任された範囲だけ一生懸命やって効果を上げればいいという考え方もあるし、基本的にはそういうスタンスで10年やったけれども、だんだんそのやりかたで自由のきく範囲も狭くなってきて、体力的にも精力的にもムダになる部分が多いのを感じると、結局そういうことに我慢できなくなってしまった。

やめたときは、そういう組織を離れて何ができるんだろうという思いは確かにあって、何だか無力感に取り付かれる部分もあった。馬鹿げているからやめたんだけど、やはり自分のやろうとしていたことをやりきらずにその仕事をやめてしまったという後悔の念、自責の念はやはりあって、それが私をずいぶん長い間縛り付けた。離婚も結局同じことで、思い描いていた結婚生活や家庭というものを結局実現させることができなかったと言う後悔、無力感、のようなものはやはり尾を引いたと思う。

今は、それなりに自分ひとりでも、あるいは今自分が置かれていて自分がやっている仕事を通じてでも、それなりに自分がやりたかったこと、その組織の中でやろうとしても出来なかったことを少しでもやれるようになってきている。私は無駄なことをするのが嫌いで、なるべく効率よくしようとして、返って膨大な時間を費やしてしまった。人生、方向転換するというのはかなり大変だ、ということはよく分かった。自分が自分のことを理解するのも本当に大変なことなのだと。この10年余り、自分を本当にいろいろな角度からひっくり返して、いろいろなことを試してみて、さんざん考えたりいろいろな行動をしてみたりしたけれども、多分そういう経験が自分には必要だったから、そういうことをしてきたんだろうと思う。

結局私が書きたいのは、私自身が自己を探究・探究していくプロセス、あるいは態度そのものなのかもしれないと思う。というか、そうだな。そういうことを書き始めた頃は、そんなもの人が読んで面白いんだろうかと思いながら、書かずにはいられなくて書き始めたのだけど、最近はこういうのも読んでいてきっとけっこう面白いだろうなという気がしてきた。考えてみれば、小説などでも面白いのは主人公が自分に気づいていく過程だったり、自分が自分を乗り越えていく過程だったりするわけで、まあその主人公が私自身であると言うだけに過ぎない。ブログでも最初のころはその当たりをうまく処理できなくてかなり生々しいかき方になることも多かったし、今でもときどき、自分の中の考えの整理の都合上、敢えてそういう書き方をすることもあるのだけど、人の考えることというのは案外多くの人と共通していて、その人だけの独自の部分というのはそんなに多くない。

まあその独特な部分は上手く演出すれば珍しいタイプの人間像を描き出すことが出来るわけだし、共通する部分は何かしら参考になったり、行き詰っているときに自分だけじゃないと慰めになったり、昔はこうだったなあとしみじみしたりできるわけで、人間の大道に触れると言うか、職業とか環境とかそういうことで行く道が違うように見えても、「この道を行きし人あり」と自分自身も心強く、「同行二人」の心境になれるかもしれないと思う。

私自身は、あまり人に合わせないで済む生き方を結局は選択してきているので、普通から見れば変に思われる考え方の部分も、自分がこうだと思っていることの中にはあると思うし、あまりそういうことも気にしないようになってきている。ただ、生活の中で近いところで暮らしている人には影響は出てくるので、伴侶を探すのはなかなか大変な部分もあるなと思う。まあそれでもいいとか、付き合って同じようにやってくれる、という人が出てくることを望んでいるわけだけど。

音楽をきいても、アートをみても、自己の探究に結びつくところはどこかある。というか、そういうものがあるから私はそれを面白いと思うのであって、そういうことを書いていると自然にそういう文章になる。つまり、自己の探究それ自体が私の文章のテーマなんだと言うことになる。だから、探究と別に自分の文章があるわけではないから、自己探求が終わってから文章を書き始めるのではなく、常に探究しながら書いていけばいいのだし、書くべきなのだということになる。探究をサボっているときは、書くべきことを書いていない感じがしてしまう。私自身のことが、だいぶ分かってきたかもしれない。

自己と非自己。アートと科学。自然と人間。成長。進歩と調和。分配されるべきものは食べ物だけじゃない。人は食べ物だけで生きているわけではないから。「言葉」やその向こう側にあるものが、分配されるのを待っている。競争、というのは結局は遊びで、まあ時に命がけだが遊びは遊びだ。遊びが遊びで終われば害はないのだが、多くの人の幸不幸を巻き込むところが恐ろしい。成長、分配、競争。

思想は実現されるべきためにある。だから、よい思想を持たなければならない。よくない思想が実現されると人は不幸になる。不幸な人が増える思想はあまりよくない。仲間内だけでなく、日本だけでなく、世界で。まあでもあまり一足飛びにそこまで考えないほうがいいんだろう、今のところ。一足飛びに考えてすぐ実行に移そうとするから、グリンピースやシーシェパードのような「頭でっかちな暴力団」みたいな行動になってしまうのだ。

まあとりあえず、今はそんなことを考えている。

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