調子が悪い時

Posted at 10/03/26

昨日はずっと雨が降り、またときに激しく、夜には雪になったけれども、今日は、というか今はよく晴れている。というのは、さっき用事で車のディーラーと書店に出かけた時、雪がちらついていたからだ。なんだか安定しない天気が続く。寒いとやはり体調が良くなくなるので、なるべくなら暖かいほうがありがたい。こちらがそう望んでそうなる、というものではないけれども。

どうもなんとなく調子が上がらない。疲れているんだなあと思う。外出先から戻って、しばらく横になったら少しすっきりした。午前中はずっとものを書く時間にあてているのだけど、調子が上がらない時というのはいかんともしがたい。こういうときはついぐずぐずしてしまって時間がなくなり、また心ばかり焦る、ということになりがちだ。

戻るべき自分の中心は無心、ということなんだなと思うが、疲れていれば、無心になれば寝る。元気であれば、無心になればわき出るようにやりたいことが出てくる。戻るべき自分の中心が無心であるならば、ものを書くというのはどういうことなんだろうと考えてみる。無心になるために書く、ということはやはりない。無心になるというのは何かをすることではなく、何かをやめることだ。自分の枠を何か外すことだ。そうして、心をからっとした大きなものにする。ちょうど、仕切りのふすまを全部取って家じゅうががらんと見渡せるくらいに広々とするように。廓然無聖。何にもない。聖なるものも、凡なるものも。

ああそうか。禅語に「親に会ったら親を殺せ、仏陀に会ったら仏陀を殺せ」というのがあるのは、そういうことを意味しているんだ。自分の中に余計なものを、導き手とか聖なるものとか、を持つな、持つと目が曇り、心が狭くこせこせする、ということを言ってるんだなと思った。もちろん極端な言い方なのだけど、それは禅の世界という、求道者の世界でのみ語られている分には別に問題はない。もともと禅の世界は、修行者に対して「喝!」と怒鳴りつけたり、座ってる背中から棒で打ったりするそういうある意味乱暴な文化の世界だ。『無門関』『臨済録』『碧巌録』を読んでいても、ぶん殴ったり鼻をねじあげたり、ときには猫をぶった切ったりして、現代人(のインテリ)から見れば乱暴この上ない。「仏陀を殺せ」というのはそういう文化の人たちが使うそういう乱暴な言葉なのだ。好き嫌いはあるだろうけど、ある意味「問い」と「返答」に命をかける人たちであるから、そういう極端な表現になったりするわけだ。

調子の悪い時というのは自分の弱点に目がいく。ただそういうときというのは、うまくそれを修正できるとは限らない時が多い気がする。今まで自分は、よく自分の弱点について考えることがあったのだけど、考えたところで直せない、ということが多かった。逆に、調子がいいときに気がついたことはさっさと修正できる。そう考えてみると、低潮期にはぼろが出るけれども、高潮期が来たときにうまくおさめればいいとわりきっていた方がいいかもしれない。調子が悪い時というのは、一つを修正しようとして三つ悪化させたりすることも無きにしも非ずだから。逆に調子がいい時は、一つ修正したついでに三つも四つも修正できたりする。そういう自分の状態というのをよく見極め、今何が出来て何が出来ないのか、ということをつかめたらいいなと思う。

12時の気温が4.6度。かなり寒い。でも日差しが春なので、黒いコートを着て歩くのも気が進まない、というところもある。春には春の暖かさがあるといい。

***

今日はやはりぼーっとしているみたいだな。車を運転していてひやりハットが二回もあった。気をつけよう。

月別アーカイブ

Powered by Movable Type

Template by MTテンプレートDB

Supported by Movable Type入門

Title background photography
by Luke Peterson

スポンサードリンク













ブログパーツ
total
since 13/04/2009
today
yesterday