これぞプロ/すみません、ぼーっとしてました/表現者としての業

Posted at 10/03/24

今朝は朝から雨が降ったりやんだり。今また強く降ってきた。でも空は明るい。路面が黒く濡れている。ひと雨ごとに大地が現れ、冬が洗い流されて、春が近づいてくる感じがする。予報を見ると、雨から雪に変わる可能性もあるようだけど、空の明るさはもう春。春分も過ぎたけれど、信州の春は遅い。ためらうように、たゆとうように、近づいては離れ、離れてはまたやってくる。思いがけない時に襲いかかるようにやってきたり、しばらくずっとなりを潜めていたり。春は、浜に打ち寄せる波のように気まぐれだ。

寝床の中でいろいろなイメージが打ち寄せてきて、目を覚ましたりまた眠りに落ちたりしていたら寝過してしまった。8時過ぎに朝食を取って、自室に戻ってモーニングページを書き、『ピアノの森』を少し読んで職場に出かけて事務的な話を少しして、駅に出て看板をかけたり、駅前の商店街の様子をみたりして、デイリーで午後ティーとスーパージャンプを買って帰ってきた。

スーパージャンプを読んでいたらかなり没頭してしまった。やはり漫画は集中する。

「ゴタ消し」新展開。外交官の過去。「バーテンダー」翼の自立。「霊媒師いずな」就活。「エレクトス」読み切り。炭鉱の物語。いい話だった。もんでんあきこさんだ!あとでツイッターで感想を送っておこう。「王様の仕立て屋」プロの道具の話。「BENGO!」「トクボウ」なんか面白いな。何が面白いのかいまひとつよくわからないんだけど。「男塾」案外いい。「ゼロ」なんか味方のふりしたのが敵の首魁、というパターンが最近多すぎる。仕掛け自体はいいだけに残念だなあ。「本屋さんにききました」今回は書泉グランデ。実際によく行く書店が取り上げられているとやはり興味深い。マンガ売り場にポップを飾らない、というのは言われてみればなるほど、と思った。固定客が年齢層が高い、というのもへえという感じで、なるほど、だから『エマノン』とかがあったのか、と思う。諸星大二郎が「ワンピース」と同じくらい売れるという話も面白い。

いたずらに自分の好きなものをお勧めとしておくのではなく、お客さんの好みをちゃんと取り揃え、そうすることで信用を得て固定客を増やし、そういう常連に支えられる、という考え方はいいなあと思った。私の商売ではどうしてもお客さんのサイクルが数年しか続かないのでそれだけというわけにはいかないけれど、「むやみに攻めるよりも守りに重点を置き、分析することで結果的にお客さんを増やす」「常連を飽きさせないためにいつ来ても新鮮に感じてもらえるように配置を少しずつ毎日替えたりする。平積みから面陳にしただけで急に売れ出したりすることもある」という話はこれぞプロ、という感じだ。

「固定客のニーズに答え、その上でファンを飽きさせない工夫をする」これはたぶん、サイトを作ったりものを書いたり、作品を作っていく上でも大事なことだなと思う。なんかそういう考え方が、私は結構好きだなと思う。

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碧巌録〈下〉 (タチバナ教養文庫)
大森 曹玄
橘出版

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昨日。月曜日に夜更かしをしてしまったので、やはり昨日も少し寝坊をし、朝出かけるのがすごく忙しかった。前夜、神保町マザーズで食べ過ぎたので朝食抜き。ラパンノワールのパンを昼に食べることにしてお弁当に持って出かける。東京駅に出て丸の内丸善で『碧巌録』関係の本を探す。大森曹玄『碧巌録』下(タチバナ教養文庫、1994)を買う。上は品切れだった。碧巌録の第51則から第100則まで。スイカで買おうとしたらちょっとトラブっていたので現金で支払い。新宿に出て、RFでブロッコリや海老のサラダを買い、16茶を買って特急に乗る。車中、『碧巌録』と一色まこと短編集『ガキの頃から』を読む。『碧巌録』を読んでいると、自分は本当にまだまだだなあということを思う。あんまりそういうことを思って自分を見失ったりしてもまずいので、少しずつ折に触れて読むくらいにした方がいいのかなあとも思うが。

~ガキの頃から~ 一色まこと短編集 (モーニング KC)
一色 まこと
講談社

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『ガキの頃から』は「-ガキの頃から-」というコンテンツが5作、と「ばか。」というコンテンツが5作。前半はどれも面白いけど、「駒子」が一番いいかなと思う。ツイッターにも書いたのだけど、前半はモーニングのサイトで試し読みできるようになっていて、そちらですでに一度読んでいたのだが、後半を列車の中で読んでしみじみした。なんというか少しおとぎ話的なところがあって、橋本治『愛の矢車草』を思い出した。あとは「いつも一緒」もいい。後半は「珠ちゃんが好きで…!」がよかった。まあこの辺、やはりおとぎ話と言えばそうなんだけど、一色まことの作品の魅力というのは、こういう「おとぎ話」をすごく説得力を持って描けるところなんじゃないかと思う。『ピアノの森』なんかもある意味ものすごいおとぎ話だし。そしてそういうのが私は好きだなと思う。

後半は結構シニカルな話が並んでいて、「恋人のわ!!」なんかは苦笑するしかないのだけど、彼女の作品がおとぎ話的なカタルシスを持たないとこういう風になるんだなと思う。こういうものが好きだという人もあるだろうけど、私はもっとシンプルに突き抜けた作品の方が好きだな。見ようによってはシニカルな行き止まり感は自分の頭の中でもう相当間に合っているし。(笑)まあシニカルになってる暇はないので前向きに全部思考を組み立て直しているけどね。

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特急は大月で停車して、何が起こったかと思ったら先行する普通列車がシカをはねたのだという。カナダやアメリカではよく聞いた話だが、郡内でもあるんだな。そんなに遅れはしなかったけど、なんだかかわいそうな話だと思った。地元の駅に着き、職場に立ち寄ってちょっと様子を見て、自室に戻って灯油を運ぶ。あまり休んでいる暇なくまた職場に出て、9時半過ぎまで仕事。けっこう忙しかったのだけど、なんか昨日の仕事はちょっと散らかった感じになってしまったなと思う。何が良くないのかよくわからなかったのだけど。夕食、入浴、就寝。どうもあまり疲れが取れないまま寝てしまったのか、朝も疲れが残っていた。

朝起きて、寝床の中で伸びをしたり気になるところに愉気をしたりしているうちに、自分の中になんだかいろいろな緊張が残っているのに気がつく。食べ過ぎたりしていると感覚が鈍感になってそういうことに気がつかなくなってしまう。昨日はかなり食を減らしたので少しましになったかと思う。昨夜大分食を減らして平気だったのは、一昨日に本当に腹いっぱい食べたからだなとも思う。うまく体と心のサイクルが作れるといいなと思うが、本当はこだわりなくおいしく食べられればそれでいいはずなんだよなとも思う。

今日の朝の寝床の中は、最初はすごく緊張が残っていて、それに気がついたらふっと力が抜けて、少し横たわっていたら今度はいろいろな思考が押し寄せてきたり、よくわからないイメージがどんどんわいてきたりして、そうしているうちにまた寝入ってしまい、結局寝坊した。気がついたのは、日曜日から忙しかったせいか、「自分のやりたいこと」が見えにくくなっていたということ。昨日の仕事がなんだか散らかった印象になったのは、「自分のやりたいこと」が見えなくなっていて、力の入れ場所がよくわからずに場当たりでやってしまったという感じになったからだと思う。

『碧巌録』を読んでいると、ネガティブとかポジティブとかいう自分が勝手に作った二分法にとらわれることなく、すべてを自分として丸ごと受け止めて自分が素直にエネルギーを発揮できるようにすればいいということは思うのだけど、自分には自分のすでにある程度以上作り上げたやり方があり、そのやり方も検証していけばいいけどやはり「とらわれない」という感じのことを思い過ぎると「やりたいこと」が消滅していく感じがあって、それはちょっと自分の羅針盤を失うことになりかねず、その辺の折り合いが難しい。

「やりたいこと」は本当は自分がネガティブだと感じる部分にも根を張っているということはわかったのだけど、あまりそういうものを意識するのもやはりちょっと嫌な感じがする。というのは多分、ネガティブに感じることというのは、それが自分をとらえる力がすごく強いのだと思う。そこに心を置きすぎないで、そこにいる自分を外から見るような冷静さが必要だなと思う。しかし、私の場合、今までその冷静さを重視しすぎたきらいがあって、そうなると自分自身に対して冷静というよりも冷酷になってしまうことがよくあり、それが自分を自分で傷つけることにつながったんじゃないかなと思う。自分自身の感情とかネガティブな部分を外から見るのは必要だけど見過ぎてはいけない、というか離れ過ぎてはいけない。まあそれはいずれ心の中での現象であるわけだから、重心の置き方、バランスのとり方が大事なんだと思う。

『碧巌録』の第53則に「百丈野鴨子」という公案がある。馬祖が弟子の百丈を連れて道を歩いていたら、野鴨がばらばらと飛び立った。それをみて馬祖は「あれは何だ」と尋ねる。百丈は「野鴨です」と答えた。馬祖はさらに、「どこに行ったのかな」と尋ねると、百丈は「飛び立ちました」と答えたので、馬祖は百丈の鼻を思いっきりひねったのだという。百丈が痛みのあまり声を上げると、馬祖は「ここにいるだろう!」と言ったという。

これが面白いなと思うのは、禅というのは師の一言一言が何か言おうとすることがあるということだ。あれは何だといわれて「鴨だ」と答えるのはまさにカモになったようなもの。「どこに行ったか」と言われて「飛び立ちました」というのでは、お前の心もここにあらずだ、と言われても仕方がない。確かに、鳥が飛び立つのを見ると、自分もどこかに飛んで行ってしまうような気持ちになる、ということはないだろうか。私はよくある。私も馬祖に鼻をひねられて、「ここにいるのは誰だ?お前はここにいるんだぞ!」と言われそうだなと思った。すみません、ぼーっとしてました。

まあそんな風に、私の心は飛びがちだ。心が飛び立つのではなく、言葉を飛び立たせなければならない。心はいつもここにいる。言葉を、作品を自由に飛び立たせるために。心はいつもここにいるから、無限の世界を見つめることが出来るのだ、ということなんじゃないかなと思ったりした。

なんというか、禅というのは禁欲的で、言葉というものに頼ろうとするのは姿のない幽霊が草や木の陰からその力を借りて出てくるようなものだとか言われると、本当に情けなくなるのだけど、まあでも大事なことは言葉ではないということは本当だから仕方がない、ということも思う。だけどまだ自分でよくわかっていないところが多いので、あまりそういうことを思い過ぎると、言葉を書くことに意味があるんだろうかとか思い始めてしまうから、あまりそういうことを考えない方がいいんだろうと思う。まあつまり、本当は言葉で書くことではなく、言葉の向こうにあるものが大事だ、ということにすぎなく、その向こうにあるものを大事にするためにはその器である言葉も大事にしなければならない、と言うことなんだけど、そういう部分の自分というのはどうも子供のようなところがあって、わかるんだけどちゃんと納得してくれないところがあったりする。一つ一つのものを大事にする習性をもっと育まないといけないと自分ながら思ったのだった。

ああ、禅の世界というのは一つのことを考えるのでもこれだけ深いところまで思考しなければならず、心の筋肉が相当鍛えられる。で、普段なまっているから筋肉痛を起こしたりこむら返りを起こしたりもしがちだ。こうして言葉にして書いてみると、自分自身が自分のトレーナーになれるからいいのだけど、まあある種の自己教育の芸当ではある。

雨はあがったかな。昼食を取ってこよう。

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ピアノの森(17) (モーニングKC)
一色 まこと
講談社

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『ピアノの森』17巻。148話、アダムスキ落選の理由を説明する審査員と追及する記者の場面が、連載時とかなり変わっている。絵も変わっているし言葉も変わっているが、同じ絵を違うコマに使いまわしたりしているところもあり、見比べてみると面白い。よく見ると、連載では影が付けられてなかった絵に影がついていたり、背景に楽譜が書き込まれていたりするところもあって、それは連載時に間に合わずにあとで付け足したのかもしれないなあと思ったり。また、単行本52ページの雨宮修平の横顔と振り返った顔は、もみあげの角度が変わっていたり顔のカーブが微妙に修正されていたりする。実は、5コマ目の振り返った顔、連載のときにはちょっと変だなと思っていて、いつも読み返すたびに気になっていたのだけど、単行本では修正されていたので本人も気になっていたんだなと思った。頭の上に「気がついた」という意味をあらわす点が書き加えられているコマがいくつかあるし、単行本にするときに相当徹底的に手を入れてるんだろうなと思う。

で、結局単行本と連載時との違いを見つけてしまうと、連載されていた時のものも捨てられなくなる。ということでけっこう切り取ってとってあるのだけど、マンガ雑誌をきれいに切り取るのってけっこう難しい。いろいろ工夫しながらやっているけど、まだ一番いいやり方は見つかってない。保存方法なども、これから工夫のしようがいろいろあるだろうなと思う。

雨は降り続いている。

***

それにしても、一色まことの表現者としての業は相当深いなと思う。考えてみたら駒子などは60年代的な古い青春ドラマのある種の王道を書いて(未成年者が結ばれて子供が生まれるとか、ある種のパターンがあった)いるんだということにあとで気がついたが、それを一色まことのまったく劇画性も少女漫画性もない少年漫画の絵で書くことによってものすごい批評性が生まれている。少年漫画というのは実はその人の特徴を残酷なくらいとらえるところに一つの特徴があるわけで、それをデフォルメするから安全化するけどそのデフォルメの加減が一色まことは絶妙で、太った醜い女子みたいなものをかわいそうなくらい「こういう子いるよな」というように書くのがうまい。そういう批評性をあまり昇華しないで書いたのが『ガキの頃から』の後半部分の作品群だなと思う。もう表現の神様、あるいは悪魔に魂を売り渡したような感じだ。

そういう部分というのは実は『ピアノの森』などにも随所に表れている。17巻でいえば150話で出てくる修平のパーティー会場にいる音楽家の鬘みたいな髪形をした男がそれで、もう絵にかいたような俗物という感じだ。批評は、というかそういう毒はそういうところで留めておいてストーリーにはあまり噛ませて来ない。そのあたりのさじ加減も、相当この人は意地が悪い(褒めことば)感じがする。一番感じたのは16巻の一時通過者の発表の場面で、いかにも使い捨てキャラみたいなコンテスタントたちが落選の涙を流しているところをシーンの背景に随所に描いていて、こういうのは映画の背景の方で変なことをいろいろ映している森田芳光の作品のような、みてるやつはみているという感じのブラックな笑いをこういうおとぎ話的な作品に書いていて面白い。

まあ、この話自体が苦界で生まれたピアノの天才少年が将来を失った天才ピアニストによって育てられるというある意味ものすごく批評性の、つまり毒の強いおとぎ話なので、うまくいく人の陰には必ずうまくいかない人がいる、ピュアな人の裏には必ず権謀術数に取りつかれた人がいる、というコントラストの強さがこの作品にはある。そしてこの使い捨てキャラたちと同じレベルで落とされてしまった独力の天才・アダムスキの悲劇性もより高まるということにもなる。

いやあ、中世には紫式部のような虚構の作者は地獄に落ちて苦しんでいるという伝承があったけれども、言いたいことはわかるよなあと感じさせるような一色まことの筆の冴えではある。

そういえば、『碧巌録』などでも、各人が全身全霊で言葉をぶつけ合っているけれども、そうやって衆生を悟りに導く一方で、奇語を弄した禅僧たちは地獄に落ちることになっているらしく、「地獄に落ちるのはお前だけではないぞ」というような感じでかんらかんらと言葉をぶつけ合っている。すごいねー。

そのすさまじさをコントロールしつつ、『ピアノの森』のようなおとぎ話を作り上げていっているのだから、これは面白いに決まっているのだ。世の中、本当に甘いものを作るには、本当に苦く、本当に苦いものを知らなければいけないということなのだなと思う。

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