ネガティブな部分を見つめる/人は好き嫌いで生きている

Posted at 10/03/23

昨夜は寝る前にブログを更新して、今朝は8時過ぎに起きて今まで家事的なことをいろいろやっていたので、何か取り立てて新しいことを書くこともないのだけど、まあブログを更新してみる。昨夜は早めではあったがやはり夕食を食べ過ぎたので胃の調子がよくない。朝は一食抜いて様子を見ている。昨日がいあプロジェクトで買ったラパンノワールのパンは昼に食べることにしよう。新宿駅の弁当売り場で牛乳を買って、r1/fでサラダでも買おう。

昨夜は日記的なことを書いて考えていることとかあまり書かなかった。最近、考えていることとかをけっこう書いているのだけど、でも何だか考える量がとても多くて、モーニングページにもブログにも書ききれていない。昨日考えたことを確かめようと思ってそういうものを読み直してみても、ちゃんと書いてないことが多くなってきた。そういう部分で思索が深まっていくと、自分の思考の軌跡がよく分からなくなっていくのだけど、でも書かないからこそ深まっていく部分もあるような気がして、その当たりのところは難しい。意識的にきちんと記録していくのか、無意識に任せてしまうのか。まあ記録したからといってあとで読み直すとは限らないのだけど、そのときそのときの考えの段階のようなものは読み取れて、自分の足元を見直すことは出来る。足元がはっきりしないほうが跳べるということもやはりあるのだけど、多分無理にとはいわないけどなるべく記録しておいたほうがいいんだろうなあとは思っている。

ネガティブなものを含めた自分全体が何を求めているのかということを知るためには、「自分のやりたいことは何か」と考えるよりも「自分の欲しいものは何か」と考えたほうがいいかもしれないなあと思う。やりたいこと、という考えにはポジティブ主義のようなものがこびりついていて、というかそれは私の場合だけどもちろん、「欲しいもの」という言葉にはわりと否定的なニュアンスを私自身が負わせている。だからネガティブなものも含めて自分全体を考えるのにはそういう言葉のほうがいいのかもしれないと思う。

自分のネガティブをどう受け入れるかということは、人のネガティブにどう接するか、ということにもなる。どうしても、人と話していても人のポジティブをどう引き出すか、ということを考えすぎるので、ネガティブなところに思考の中心がある人と話を通じさせにくい。まあ無理してそういう人と話すこともないといえばないのだけど、いずれはそういうことにこだわりなく話せるようになれたらそのほうが多分いいと思う。自分のやりたいことが定まっている、ピュアな人と話すほうがすごく楽しいし自分も幸福になるのだけど、もっともっと大きな人になれたらいいなと思うし、それまでの道筋をどう考えるかということはあるけど、自分自身のことをちゃんと見るためには人はともかく自分のネガティブはちゃんと見られるようにしないといけないと思う。

それは自分のネガティブと妥協するということとは全然違う。妥協というよりは、その私自身の本質的な生の志向性の深みというようなものを、ちゃんと意識で認識し、自分がどこへ行こうとしているのかをちゃんと見定めなければいけないということだ。今まで自分のネガティブな部分を考えるのがイヤだったのは、それを考えるとその思考に自分が説得されそうになって、それに妥協してしまうんじゃないかということが恐かったからだ。ネガティブな思考というのは本当に私にとっては説得力のある言葉を持っている。ただ最近、その説得力がだんだん薄れてきている感じがする。ポジティブなものの語ることのほうが寄り説得力がある、それを感じるといえばいいのか。少なくとも同じレベルで、こころの重心をこころの中心において、ということは意識できるようになって来た。

ネガティブなものをみないようにしていても、本当はネガティブなものに振り回されている部分が今まで本当にたくさんあったわけで、見なければ縁が切れるということはない。自分を振り回していたものの正体は、やはり自分の欲しいもの、「欲望」といえるものだったのだと思う。そのことについて正直にこういうところに書くことが出来るかというとさすがにそれは分からない、というかそういうものを書くために小説というフィクションの形態があるわけだから、表現するとしてもそういう表現の仕方になるんだろうと思う。まあ自分の背負ってるものはいろいろあって、今自分で気がつかなかったり見ないようにしているものもけっこうあるだろうから、なんかまあ先は長いんだが、書きながら何とかしていきたいと思う。

自分が自分であることって、けっこうそういうネガティブな部分に根ざしてるんだよなと思う。いや、私がネガティブという言葉で分類しているだけで、他の人がどう考えているかはわからない。普通はもっと素直に受け取っているかもしれないんだけど。

つまり、これがイヤでこれが好きだとか、そういうことなんだけどね。イヤだと思う自分が許せない、みたいなところが私にはあるので、どうもそういうことって考えるのが苦手なんだけど、集中的にそういうことを考えてみてもいいのかもしれない。いや、書いていてもそう思うけれども、なんか別にそういうことに許すとか許さないとか言っても仕方ないんだけどね。好き嫌いというのは結局、自分が生物として生きるためのアンテナなんだからね。それに嫌いだからといってその存在を認めないというのも極端な発想で、いやまあそういう極端な発想に行く傾向があるからそういう思考自体を自分が封印してきたということなんだけど、みんなが好き嫌いで生きているということ自体をもっとちゃんと分かっておかないといけないということなんだな。

ああ、なんかちょっと分かった。ちゃんと分かるまではもう少し時が必要な感じもするけど。

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