自分をどこで・どう生かして生きていくか/正体不明の不安

Posted at 10/02/03

昨日帰郷。昨夜来の雪でどうなることか心配したが、特急はほぼ時間どおりに動いていた。朝は5時過ぎに起床し、寝床の中で腹の手当などし、モーニングページを書き、準備をしたりブログを書いたり。9時前に家を出て新宿へ。あちこち止まっている線があったが、特急は5分遅れで発車した。

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)
西村 佳哲
筑摩書房

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車内では西村佳哲『自分の仕事を作る』を読む。ようやく読了した。この本、いろいろと問題提起があり、そういうところも面白い。330ページもあるのに273ページから後書きが始まっていて、どういうことかと思ったが、『10年後のインタビュー』という補稿があり、そのあとに文庫本後書き、解説がついていて、終わりが長い。で、けっこうこのあたりにも大事なことが書いてあって、発展する仕事、現在進行形の本という感じがして面白かった。

「自分をどこで・どう生かして生きていくかということは、その人自身の手元にあると思うのです」。

この言葉は重いし、そうあれかしと思っても現実にはなかなかそうはいかないことも多い。私も自分が荒れた教育現場に適応できないと思いながら、結局10年もいて、体を壊してやめた。今思えば、やめる・降りるという決断をもっと早くにしていればよかったのだが、オルタナティブの選択肢が見つからず、ずるずると続け、体力も気力も消耗することになってしまったのだ。勤めながら次の職場を探すような器用なことのできる人ならともかく、もともと「普通の働き方」みたいな絵を全然描いたこともなかった私には、何をしていいのかも見当がつかなかった。どんな状況だろうと、今の状況から「降りる」ということははかりしれない勇気を要する。私など、本当は就職したとたんにこの仕事は向いていないと思ったのだが、石の上にも三年というし、と思って仕事を続けた。4年たったら進学校に転勤できるかも、という期待があったからだ。しかし結局いろいろあってさらに底辺の学校に転勤せざるを得ず、また次の転勤の機会を待って我慢しているうちに体を壊してしまったというのが本当のところだ。最後の年は転勤できなければ辞めよう、と思って最後の希望を託していたのだが、結局叶わなかったのでやめた。そうしたら次々に病気にかかり、回復に何年もかかった。一番やられていたのは精神的なものだったと思う。あの衣、オルタナティブの選択がもう少しは目に入っていたら、もっと気持ちを楽に過ごせただろう。

また、何のかんの言って、決まった給料をもらって働く生活は、お金のことを考えずに済むという最大の長所がある。お金のことは関係ないと気取っていられるのは楽なことだし、欲しいものはまあ大体手に入る。もともとそんなに物欲の強い方でもないので、ほしいと思ったものを買っても家計にそう影響を与えることもない。ただそんな生活の中で、自分がどんなに磨り減ってしまったのかは、全く想像もつかないほどだった。というか、今でもよく分らない。

今の生活は、金銭的にはまあ不如意なのだが、午後半ばから仕事で深夜といわれる時間の前には終わる。苦手な部分ももちろんないことはないが、全て自分の責任で自分の仕事の全体像がつかめる。やるべきことに集中できる、ほとんどの場合は。仕事が集中して気がそぞろになってしまうときもないわけではないけれども。

その他の時間は、まあその他の仕事も時によって入るので忙しいときもないわけではないけれども、それも基本的には自分に返ってくることだ。基本的にはまだ勉強しているところが多いけれども、自分の仕事を自分で作っている感じはある。あとは父の葬儀後のさまざまな法事関係や挨拶関係、そういう家の仕事もあるけれども、こちらは母がだいぶ元気になってきたので、母に任せられる部分も増えてきた。

その他の時間は、こうしてブログを書いたり、本やマンガを読んだり、ショパンを聞いたり車で本屋に行ったりすることもできる。最近では小説の断片を書く気持ちも出てきて、自分のクリエイティブな部分を刺激することも出来るようになってきたので、だいぶ楽になってきたところも多い。

それでも、「自分をどこで・どう生かして生きていくか」ということをやり切れているかといえばまだまだだなと思う。山に篭って炭を焼く。西海岸に渡って絵本作家になる。そんなシンプルに割り切れないものが自分の中に残っている。

昨日は仕事10時まで。雪のせいで、人が少なくて暇だった。その時間を使って少し勉強ができてよかった。だいぶ大きな発見もあって嬉しかった。帰宅、夕食。食べ過ぎた。どうしても食べ過ぎる。きのうは午前中の午後も間食をしてしまったから、多分その影響だろう。食べ過ぎるとほんとうに覿面に体の調子がおかしくなるので困ってしまう。母と法事の話しその他。母は感覚的なのに完璧主義者という面があり、周りでいろいろやってあげても結局自分が納得するようにしないと気がすまない人なので、甚だ面倒くさい。まあ私が大雑把すぎるということもないわけではないのだが。

臨床家のための整体操法入門
浜田 貫太郎
たにぐち書店

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入浴し、自室に戻って『臨床家のための整体操法入門』を読みながらいろいろ試して見る。特急の中からやっていたのだが、頭の調律点の愉気を自分にする。あくびが出て体もゆるむし呼吸もしやすくなる。いろいろやっているうちに寝てしまうことがたびたびあって、ちゃんと布団を敷いて寝たのが2時になっていた。暖房の調節を誤ったのか、夜中に大汗をかいて目を覚ました。タオルで拭いて、着替えられるものは着替えて。でも汗をかいたということ自体はいいことなので、よかったなと思う。

起き掛けに、正体不明の不安にいろいろ襲われて参ったが、ちゃんとその場所にいない、意識が浮遊しているということが問題なのではないかという気がした。そう思っていたらだんだんいま自分がここにいる、という感じが出てきて落ち着いてきた。他には、興味も関心もないことなのに変に突っ張って気負ってみたりしたことがいくつかあったなあと思った。そういうことを自覚することで、意識が変わってくる。

起きて、自分の体の中の調整のようなことをしていたら7時半。モーニングページを書いて朝食に。あまり食べる気がしなかったのでスープだけ少し飲んだ。納骨の日取りを考えたり人の仕事を決めたりしているうちに人が来て、いろいろと話し合い。現地に行って場所など確認。それが10時ごろまでかかり、その後母と少し話をしていたら11時近くになった。今日は節分か。

暮しの手帖 2010年 02月号 [雑誌]

暮しの手帖社

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『暮らしの手帖』を読んでいたら、随筆とエッセイの違いという話が出てきて、随筆は実際にあったことについて書く実用的な文章、エッセイは考えたこと、思索について書く文章、というようなことを書いてあった。そう言われてみると、私のブログというのはエッセイ的な部分が大きいんだなと思う。随筆的なところはそんなにない。実用的なところは、確かにあんまりないなあと思う。

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