精神的リハビリ/リアリズムという表現方法

Posted at 10/01/14 Comment(4)»

昨日から今朝にかけて雪が降り続き、気温もずっと零下で意気が上がらない感じが続いていたが、この時間(10時40分)になってようやく日が射してきた。10時の気温はまだマイナス3.7度だが、昨日に比べるとおだやかな感じになってきている。今日は気温は少しは上昇するかもしれない。すっかり暖かく、までは難しいだろうけど。

昨夜は仕事、10時前まで。ツイッターでいろいろな人をフォローした。江口寿史をみつけてすぐフォローしたのだけど、RTをつけたら反応してくれた。その後和田ラヂヲとかさべあのまとか、マンガ家関係にフォローが広がる。いしかわじゅんから始まったんだな、確か。他にもマンガ家関係はいるのだけど、リストを見られないので誰がいたかはっきりわからない。吉田戦車、おがきちかはいるが。

今朝は不燃物を出す日だったのだが、腰の調子がいまいち心配だったのと寒いのとで次回に回すことにした。それでも職場で少し用事をして、コンビニで電気代を払い、モーニングを買って帰宅。朝食後、モーニングをじっくり読むことにする。精神的なリハビリ。

「特上カバチ!!」新章開始。介護と相続。「宇宙兄弟」NASAの訓練開始。「ライスショルダー」ボサンとスジのストーリー、ルビーと会長のストーリー。「クッキングパパ」若き日のパパとママのストーリー。「GIANT KILLING」若き日の達海のストーリーが続くが、どうも陰陰滅滅としてしまう。現在のストーリーが底辺からてっぺんを目指すストーリーなのに対し、過去のストーリーが転落や崩壊を描いているからだろう。この展開がこれだけ長く続くとは思わなかった。けっこう辛いものがあるのだが。「シマシマ」思ったよりうまく行きそうな予感、を思わせる展開。「とりぱん」いいね。「なごみさん」宮本福助の新連載開始。「怖い顔」ネタで全編引っ張ろうとするところが笑える。昨日フォローしたなかに@seishiroooという人がいてアイコンがやたら怖い、というネタで江口寿史や和田ラヂヲにかわいがられていたが、私もあまり怖くて大笑いした。さすがに宮本福助、安定感抜群でこのネタを展開している。面白いと思う。

「ポテン生活」十両か。「なまずランプ」なるほどね。「神の雫」メドックのストーリー続く。「ダンダリン」新連載。労働基準監督署には逮捕権があるのだそうだ。「ラッキーマイン」の鈴木マサカズの絵。「N'sあおい」うーん。「エンゼルバンク」東大生はいまだに希少価値、という話。「miifa」面白くなってきた…かな?「ボクラハナカヨシ」和んでるな。田中誠がこういう展開をそんなに長く描ける人だと思ってなかった。「ギャンブルレーサー」だからねえ。「誰も寝てはならぬ」ビーチベースボール??

「ピアノの森」。新年第一回。雨宮修平は新しい世界に到達。しかし父は点数ばかりが気になり始める。そこに生まれた新しい感情。うーん。職人か、芸術家か。「へうげもの」柳生と織部の対比。

「今週この落語家を聴け!」林家たい平。この人、「笑点」に出る前にラジオで一度聞いたことがあって、「座布団の取り合いに出ることになりました」、みたいなことを言っていたが、出てみたらすっかりはまり、やはりそれで一躍有名になったみたいだ。しかしそのために落語ファンからは評価が落ちるということになっているという。確かに春風亭昇太みたいに有名になってから「笑点」に出る「上がり成り」なら評価に傷はつかないだろうけど、「笑点」で有名になったということで「成り上がり」的な感じが付きまとってしまうんだろうな。しかしこん平の弟子から選ぶ、という線はあっただろうし、まあそれで評価を下げるのも気の毒な気がする。で、この人落語家としてはけっこう変な人ではないかと思っていたけど、読んでいると「マニアックなネタで普通の人を笑わせる」という出来そうで出来ない芸を持っている達者な人だという印象を受けた。

ああ、久しぶりにモーニングを満喫できた。『ピアノの森』、早く次の単行本も読みたい。

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自分の喜びの源泉は読む、ということだ。「読む」、にはいろいろあって、耽溺するように読む必要があることもあるし、批評するように読むことが必要なこともある。今、心が壊れかけているようなときには、癒されるような読みが必要だ。今週号のモーニングは、そういうものを満たすものがあった。世界の明るい面、前向きな面を信じるには強さが必要なわけだけど、その強さが足りないときがある。信じられないのは弱いからなのだけど、人は弱るときもある。弱るというのは、体が思うように動かなかったり、寒かったり、暗かったりすることによる。状況が悪いときはどうしても人は弱ってしまうが、さらに調子が悪ければ最低線の仮死状態で耐えなければならないときもある。状況が悪くても、難なく乗り切れるときもある、強さが十分にあれば。いつもそうできる人は強い人だが、その強さにもいろいろあるんだろうと思う。

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柄谷行人『近代文学の終わり』。読むと考えることがたくさんある。リアリズムが小説を芸術にした、という話。私はそれがなぜなんだかよくわからないのだけど、リアルであるからこそ現実を越えた真実を描ける、という言い方になるのだろうか。まあ、真善美という言葉があるように、そうした価値に迫れるものが芸術なんだろうとは思う。

しかしリアリズムというものは、どうも昔からあまり好きではなかった。リアリズムは現実を模倣し、現実に近づこうとはするが決して現実そのものにはならないわけで、敢えて言えば「二流の現実」なんだ、という感じをずっと持っていた。月をさす指、みたいなものだろうか。月は決してそのまま表現することはできない、と。

また、この言葉は、日常的には「現実主義」という言葉で使われているが、芸術的な意味でのリアリズムとはかなりニュアンスが違う。日常的な文脈ではリアリズムの反対は「理想主義」になる。つまり「現実」をシビアに認識することで、手堅い行き方をすることが「現実主義=リアリズム」という感じで使われている。芸術的な意味でのリアリズムは表現の問題であって、現実を模倣してより現実に近い表現ができるように目指すということがリアリズムだ。だから現実を超えて表現そのものを現出させようとすれば表現主義になるし、現実を何かでシンボライズして表そうとしたら象徴主義になる。表現の方法論の問題だ。

柄谷の指摘のように、写真が出てきて絵はそれとリアルさという点では太刀打ちできなくなったから、別の方向を求めるようになった。それが印象派以降の現代絵画の始まりだということになる。小説も、映画が出てきてリアルな方向では敵わないし、現代のようにDVDで気軽に過去の映画も見られるようになると、簡便さという点でも映画には敵わない。映画では表現できない小説独自の表現が必要だということで、そういうことを村上春樹やイシグロらも追究しているのだろう。

マンガはストーリーと絵が合体しているからマンガでしかできないこと、というのはいろいろある。こうの史代はどちらかというとストーリーの方で評価されているけれども、表現の方法という面でももっと取り上げられてもいい人だと思う。この人の工夫は「工夫好き」という感じで、生理的に工夫するのが好きなんだなというか、マンガというのは工夫して描くものだ、みたいな前提があって面白いなと思う。ある意味、ある時期の筒井康隆に似ている感じがする。

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こういう話、別に嫌いじゃないのだが、なんだか今はあまり書く、というか展開する気にならない。なんというか、個人的な好き嫌いの話みたいな気がするからだろうか。

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柄谷は80年代で小説は終わった、というのだけど、それは具体的にはどんなことをさしているのか。思ったのは、小説の小市民化。これは題材の問題ということだろうか。小説の無害化/安全化。これも題材の問題、あとは手法の問題ということか。題材も手法も刺激的なものがある意味溢れてはいると思うけれども、現実を浸食する力が失われてきている、ということだろうか。

うーん。ある意味、小説が「未来予想図」ではなくなった、ということもあるんだろう。この小説が暗黙にでも指し示す方向に世の中が動く、という感じがしなくなった、というか。「勇士は全てを挑戦ととらえ、凡人は全てをめぐみか障害ととらえる」、という言葉があるが、世の中の人が小説を挑戦として読まなくなった、ということの方が多分本質的な問題なんだろうなと思う。そうなるとそれはメディアの問題ではなく、社会思想ないし社会心理の問題なのだが。

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リアリズムの話の続き。どこかにも書いたが、リアリズムという表現方法はどうも現実の模倣によって二流の現実もどきを作る、という感じがなんかしてしまって、直の現実にかなわないものを作る意味などあるのか、という気がする。歴史学的な意味として、ドキュメンタリー的な意味としてはわかるのだけど、芸術的な意味としては。

しかし、自分がそういう表現方法は絶対取らないかといえば、そうでもない。服装を考えるときに、どうしたら目立つかとか言うよりも、どうしたらその場にふさわしいものになるかということを考える。ある種のコスプレみたいな意識になる。初めてスーツを着たときも、会社員のコスプレをしているような気持ちだった気がする。初めての礼服、初めての燕尾服、みんなそんな感じだ。リアルにそういうものを再現する、という意識がそういうときにはある。

教壇に立つときもそうだな。最初のころはあまり先生らしさというものを意識していなかったけど、途中からあんまりいいかげんな教師が多くなったせいもあり、何とか「先生らしい先生」になろうとした。考えてみればリアリズムを追求したわけだな。やってるうちに息が詰まってきてしまったけど。舞台なら何時間かだけでいいが、何十年も先生らしさのリアリズムを追求するのは私には無理だった。

どうも私にとっては、リアリズムということは個性の圧殺ということと同義語になっている気がする。あれ?思っていたのと違う結論になった。

"精神的リハビリ/リアリズムという表現方法"へのコメント

CommentData » Posted by behind-Eyes at 10/01/15

こんにちは。

モーニングを買ってはいないのですが、「今週この落語家を聴け!」はよく立ち読みします。掲載されているマンガのいくつかは、それでも単行本で読んでいたりはします。「ピアノの森」はこちらで書かれていた文章によって読みたくなり、正月にまとめて買って夢中になりました。一気に16巻分読めたのは幸せでしたが、たちまち禁断症状に推移。映画を借りてきて見て、日頃はあまり聴かないクラシックのCDを何枚も購入しました。教えていただき、ありがとうございます。17巻、焦がれています。

林家たい平師匠は一度しか聴いたことがありませんが、上手な口演でした。「笑点」は得でもあり損でもあるのでしょうが、大師匠の三平宅に6年半住みこみをした経験はいい意味でのしたたかさを醸成してくれたんじゃないかという気がします。今、高座にかかる落語には新作もありますが多くは古典なので、時間の澱を宿した噺がどう現代性を獲得するかが聴きどころのように思います。それはきっと落語家という存在に帰結することになりますが、古典という知恵と経験の蓄積を活かしうるのが生きた人間というのは興味深いです。そこでは、言葉が肉体を通し変幻しいくつもの解釈に再生するからです。

腰、どうぞご自愛ください。

CommentData » Posted by kous37 at 10/01/16

コメントどうもありがとうございます。

『ピアノの森』、ブログに書いた通り私もはまりまくりましたが、同好の士が増えると嬉しいです。(笑)17巻待ち遠しいですね。16巻の続きの掲載誌は全て保存してありますが、単行本化のときに多少描き直すらしいので、どこをどうするのかも含めて待ち遠しく思っています。

私は落語、寄席で聞いたことはほとんどないんです。ずいぶん昔、そういえば何とか名人会でどこかのホールで聞きましたね。小さん師匠がそばをすすってました。岩波ホールかどこかだった気がしますが…

根岸の三平堂でしたっけ、あそこは二度ほど行きました。たい平は住み込んで薫陶を受けたんですか。うーん、一筋縄では行かないものを感じてましたが、そんな経験があったんですね。

落語という話芸のすごさは演劇をやっていたころにとても感じていました。何かで浅草の寄席にぶらっと入ったときにたまたまやっていた若手の落語家が最悪で、なんかそれ以来行く気を失ってしまったのですが、最近のブームはすごいらしいですね。

なかなか東京に出られず、映画や音楽会、落語のような時間芸術を味わう余裕がなかなか出ないのですが、そういう機会も持てるといいなあと思っています。

示唆に富むコメント、ありがとうございました。

CommentData » Posted by behind-Eyes at 10/01/16

単行本化の際に手が入る違いを楽しめるのは、連載からちゃんと追ってる人の特権ですね。ちょっと悔しくなりました。「がきデカ」を読みたさにチャンピオンを買っていた子供の頃以来、絶えて漫画誌を買うことはないのですが、モーニングの充実度を思うと買う価値はありますね。

落語は聴きはじめて一年くらいなのですが、僕も演劇を志していた時期がありました。演劇科に入り劇研にも入部したのですが、根性なしで劇研の方は早々に辞めてしまいました。芝居は観つづけましたが、あるときどうも言葉が邪魔くさくなりダンスを観るようになりました。それが縁あって落語を知りむしろ言葉にもっと近づいたのは、鮭の里帰りのようなものかもしれません。

落語はどの噺家を聴くかが重要なので「今週この落語家を聴け!」など、ぜひご参照ください。個人的には、小三治師匠をつよくお薦めします。チケットが取れるかが問題ですが、寄席でトリを取るときに早めに並べば観ることができます。お時間できると、いいですね。

CommentData » Posted by kous37 at 10/01/18

>behind-Eyesさん

演劇をやってらっしゃったんですか。うーん、それでダンスと落語に行く、というのは考え方としてはありますね。身体と言葉を分けるというか。クナウカの宮城さんのやり方がそうですね。

わたしは、身体と言語が一致しているところに演劇の面白さがあると思うんですね。でもまあもっぱら前衛というか小劇場というかアングラというかそっち方面にしか関わってなかったから、新劇的な正規の大学の演劇教育とは無縁なんですが。

私の友人も舞踏に行ったり狂言に行ったり全然違ったほうに行ったりそれぞれです。私も言葉を追求しようと思っているのですが、身体が欠けている状態はなかなか厳しいものがありますね。

こういうお話をブログで出来ると楽しいです。どうぞまた書き込んでくださいね。もしツイッターもやってらしたら、どうぞアカウントをお知らせください。

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