オプション1・心を正常に戻す時間/怒りについて

Posted at 09/08/28

ちょっと気が向いたのでケータイで書いてみます。敬体です。

毎日いろいろなことが起こるわけですが、昨日はモーニングの発売日でした。先週号の次週予告に「ピアノの森」が出ていなかったので今回は掲載されないんだろうと思いながら読んでいたら、いきなり「誰も寝てはならぬ」の次のページにパンウェイが出ていて驚きました。「何だのってんじゃん」と思わずつぶやいてしまいました。twittered.

ってことでいまtwitterを英和辞典で引いてしまったわけですが、もともと「小鳥がさえずること」って意味なんですね。タイムラインで小鳥たちがさえずっているわけだ。小鳥のさえずりの中から意味のあるフレーズを読み出す、というのがtwitterの醍醐味かと。タイムラインをどう組むかがやっぱりポイントである気がします。

「ピアノの森」はパンウェイの演奏が始まるわけですが、今週号では彼の過去がモノローグで語られます。2006年に雑誌に載った一次予選のパンウェイの回想の映像。それにはほとんど意味付けがされてなくて、ただ苦しい人生を送ってきたということだけがわかるというものだったわけですけど、今回はそれが語られます。この映像はそういう意味だったのか、というふうに種明かしがされていく。3年越しの伏線解決。こういうところはすごいです。何年もぶれずに同じ作品を書きつづける。古くならない内容だからこそ出来る。まさに不易流行の手本のような作品だと思います。

しかし、肝心のショパンコンクールの方は毎回選考方法が変わっていて、そのあたりは困ってるだろうなあと思います。注にも2000年の選考方法に基づく、と書いてありますが、2005年は全然違ったみたいだし、次回の2010年もどういう方法になるのやら。2010年になる前にマンガの中のショパコンが終わることはまず考えられませんし。

昨日のブログで、というより最近のブログで鬱になったとか何だとかそういうことについて言及したので、ご心配のメールをいただいたりして済みませんでした。自分の中のことをどこからどこまでこういう公開されているものに書くのが妥当なのか、ということについてはいろいろ考えています。自己探求の軌跡を正直に書こうと思うとかなりきわどいところまで書くことになりますが、もちろんそれだって書けないことはある。でもなるべく正直に書いた方が読みものとして成立しやすくなるかもしれないとも思うので、そういうところは迷っています。

昨日は午後、ちょっとしたことにひっかかって貴重な時間を無駄にしてしまったし、今朝もずいぶんちょっとしたことが尾を引いて、『ピアノの森』を何巻も読み返しました。

それで気がついたのだけど、自分の時間の配分が、最近は「自己を見失ってしまう時間」と「心を正常に戻す時間」がかなり多くを占めているということです。『ピアノの森』9巻に、スランプに陥って自分を見失い、カイを訪ねて帰国した雨宮が、カイがピアノを教えている大貴という少年に、「オプション1.心を正常に戻す時間」という話を教えてもらい、一本指でいいからとピアノを弾かせられる。恐る恐る弾き始めた雨宮は自分がいかにピアノを弾きたがっていたかということに気づいてスランプを克服する、という話が出てきます。考えてみると、自分が「必要」と感じることの多くというのは、「心を正常に戻す」ために必要だと感じていることが多いようです。それだけ自分を見失うことが最近は多いということなのですが。

最近は忙しいし、また心がいたむことも多いので、心を正常に戻すような癒し、自己治癒が必要なときが多く、またその時間も長くかかります。ただ、あまりそればかりに時間をとられていてはいけないなあと「心を正常に戻す時間」という言葉を読みながら思いました。それ以外の時間は、まあつまり「戦っている」わけですが、戦うときにはやはり自分を見失ってしまうことは禁物です。本当の弾丸が飛び交う戦場ではないのでいちおう死にはしませんが、死に近いような負傷を心に受ける。必死に弾丸をかわしかわし、それでも敵陣に向かって進んでいかなければなりません。まあつまり修羅場です。

しかしすべての時間がそうではない。何とか心を正常に戻して、残りの時間を楽しいことに使いたいと思うのです。

最近の私は「楽しいこと」よりも「必要なこと」に時間を取られ過ぎていた。必要だから仕方がないといってしまえばそれまでですが、「癒し」だけに時間を取られてしまうことに疑問を持つ人がたくさんいるように、やはりそれだけではだめなんだと思います。

私の楽しいことってなんだろう。私に楽しいことなんてあるんだろうか。まあこういう思考自体、そうとう危なくなりかけている面があるわけですが、結局何をやりたいかです。私の仕事は人にものを教えたりすることが多いのですが、一体何を教えたいのだろう。そう考えたとき、やはり教えたいこと、伝えたいことは「楽しさ」なんだろうと思うのです。

自分が楽しさを見失っているのに人に楽しさを教えるなんてありえるんだろうかと思うかもしれませんが、でもやっぱりそういうことだろうと思う。何かを知るということは楽しいことです。音楽を聞くということは楽しいことです。その楽しさの中には、しみじみとした味わいもあれば、すごい興奮もあれば、疑問が氷解していく知的な快感もあるでしょう。また会話を楽しんだり、声や姿に魅了されたり、楽しさというのはいろいろな側面を持っている。そのすべてを「楽しさ」とまとめてしまうことには異論があるかもしれませんが、私はそれらすべてをまとめて「楽しさ」といいたいと思います。

やはり「ピアノの森」に「ピアノ弾きの幸福」という話が出てきます。少年時代のカイが初めてのコンクールで喝采を浴びたときの話です。ステージに立ち、「自分のピアノ」を多くの人に聞いてもらって、喝采が返って来ること。ピアノ弾きの幸福は、そんなシンプルなものに違いありません。それはすべての表現者にとってそうだと思います。「自分のピアノ」を、「みんなの前で」弾くこと。形は違え、表現者の幸福はそこにある。やるべきことは「自分のピアノを弾く」こと。そのためにさまざまな準備を積み重ねること。その幸福は自分も舞台に立って、ずっと経験してきました。

今ではもう舞台に立つチャンスはあまりないかもしれない。でも表現という行為の本質は変わりません。このブログだって、一人でも多くの人に読んでもらいたい。一人でも多くの人に楽しんでもらいたい。実際のところ、私は何か難しい意見を伝えることにあまり興味をもってはいないのです。もちろんいいたくなることはありますし、それは伝えたいと思う。自分が正しいと思うことは、より多くの人たちにも正しいと思ってもらいたいと思う。でもそれが自分のやりたいことの中心ではない。そういうことにも気がついてきました。

評価されることが問題なのではなく、楽しんでもらうことが問題なのです。このブログくらいしか書く時間がないことは往々にして多いのですが、やはり楽しんでもらえるのが私にはうれしい。最近はずっと自分でも楽しいんだかなんだかわからないことを書いてることが多かったのですが、これからはもっと意識して楽しいこと(いろいろありますがね)を書いていこうと思った次第です。

以上、ケータイ日記でした。

***

怒りについて 他二篇 (岩波文庫)
セネカ
岩波書店

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ちなみに昨日、風樹文庫という岩波文庫が全部そろっている(岩波茂雄の生地にあります)図書館でセネカ『怒りについて』(岩波文庫、1982)を借りてきたのですが、どうもあまり必要ではなくなったようです。

怒りというものに対して、皆さんはどういうイメージを持っているのでしょう。私はずっと、否定的なイメージしか持ってなかったのだけど、最近は、「パワーの源泉」という意味では怒り、あるいはその背後にある「力の源」を引き出すための一つの仕掛けなんではないかというふうに考えるようになりました。

戦後はずっと、怒りというものは否定的にとらえられてきたと思います。しかし、「怒り」を売り物にするような人たちも割と多い。自分の「正義」を表看板にして社会や自民党を糾弾するような類の人たちです。そういう人たちは伝統的に反体制の美名のもとに怒りを正当化してきたわけですが、あまりそういうことに魅力を感じなかったので、怒りに対する考え方が換わることもありませんでした。

しかし、最近では資本主義的な立場の人や、よくわからない個人的な怒りを振り回す人たちが結構多く、またそういう人たちは不思議なことに自分が怒ることの正当性を大いに信じ、肯定しているという現象を見るようになりました。

怒りに自分を見失うようなことは結局あまり肯定できません。でも、怒りのエネルギーを利用して状況を自分に有利にコントロールしようとする、そういう使い方をしている人が多くなってきたような気がします。戦後は少なくとも理想主義的には「力」よりも「理性」を重んじる時代でしたから、怒りのそうした側面はあまり重視されてきませんでした。しかし、はっきり言って現代は「理性」よりも「力」が重視される時代です。「怒り」が復権してきたのも、そういう時代背景があるように思われます。

仏教でも、原始仏教の時代では怒りは否定的に取り扱われていますが、大乗仏教や密教の時代になると「憤怒」の形相をした多くの仏像が作られるようになったように、怒りの持つパワーが評価されるようになります。私も自分の殻がきつくて自分を思ったように表現できないときに怒りのパワーを利用したことがよくありますが、これも一度覚えてしまうと常習化するところがあります。無自覚にやるとコントロールできなくなって「ただの怒りっぽい人」になってしまいますが。私も自分がそうなってることを自覚したことも何度もあります。

人間存在を理性でセーブしようとしたとき、怒りは邪魔者になりますが、人間存在をもっと全的なものととらえたとき、怒りのエネルギーを上手に使うことは重要なことかもしれません。そういうことについてちょっと考えてみようと思って借りたのですが、どうもセネカさんはストア派ということもあり、否定的な意見ばかりなのですね。

ただ怒りというもの、みんなわかっているつもりでいて、本当は全然わかってないんじゃないかと思う。私自身もそうですが。心理学的な探求をしてもこの場合は無意味です。心理学というのは人間を今の社会に適応させることを最終的な目的とするものだから、人間存在の不合理な面について深く洞察することはできない。やはり哲学なんだと思います。

そういうことについて考えてみたいと思ったのですが、どうも楽しいのかどうかわからない。まあ将来の課題の一つとしてストックしておきたいと思います。

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