ショーペンハウエルの前後/芸術はなぜ、人間にとって必要なのか

Posted at 09/08/08

忙しくてまとまった本を読む時間がないのだけど、ショーペンハウエルの伝記を少し読みすすめた。そこで、ヒュームからカント、ショーペンハウエルからニーチェに至る流れを概説してあって、今まであまりよくわからなかったこの系統の流れを確認することができた。

その理解したところをまとめると、ヒュームはイギリスの哲学者で、経験論の立場から認識は経験にのみよるものと考え、因果律を疑って自然科学もまたその根拠が疑わしいという懐疑論を唱えた。カントはそれを読んで衝撃を受け、認識の根拠を問い直し、経験が加わる以前に理性があると考え、それを純粋理性と読んだ。純粋理性が何を知ることが出来るかについて考察を加え、結局純粋理性が知ることが出来るのは現象だけで、その本質=「物自体」を知ることはできないと考えた。しかしカントは人間には必ず道徳法則を持っていると考え、その道徳法則に自主的に従い、自由に行動することによって、物自体に触れることが出来ると考えた。その行動の主体を実践理性と呼んだ。

ニーチェはショーペンハウエルの「物自体」を意志と見る見方を受け継ぐ。しかしショーペンハウエルが盲目的なものであり否定されるべきものとしてとらえた意志をむしろ積極的に肯定し、より向上していくことこそが人間の本質であるととらえ、「権力への意志」という表現に行き着く。この世を苦の世界であるととらえるショーペンハウエルのペシミズムをさらに推し進め、「神は死んだ」とするニヒリズムにいたる。その虚無の中で向上を目指すことを繰り返すことを永劫回帰と呼び、生を絶対肯定する。

まあすごく適当でよく知っている人から見ればいいかげんだと起こられるだろうけれども、とりあえず今のところそんな感じで捕らえている。今書きながら感じたが、ニーチェの言うことって『日出処の天子』の終末部で厩戸王子が言っていることと重なる。あれは永劫回帰だったのか。またショーペンハウエルに比べるとニーチェはこの世を苦ととらえるという点で足りないと作者は書いていて、なるほどそうかもしれないと思った。

ヒュームは言ってることはわかるが共感するかどうかといったらどうかな。カントもいってることはわかるけど、理性をあんまり重んじるのもどうかという気がする。だからカントからショーペンハウエルへの飛躍は、私は共感できるのだけど、ショーペンハウエルからニーチェへの飛躍、つまり生の衝動・生への意志を絶対肯定する側面はちょっと大丈夫かなと言う気がする。ただショーペンハウエルに留まっているのも確かに面白くないところもある。そのあたり上手く折り合いがつく思想があるといいと思うのだが。

朝、『ピアノの森』を読み直していてやはり泣けた。芸術に生きる人たちの人生ってどうしてこう私を感動させるのか、自分でもよくわからない。

カントやショーペンハウエル、ニーチェが面白いのは、やはり議論の対象として芸術を扱っているからだ。芸術が人間存在にとって何なのか、ということをやはり考えたい。自分にとって芸術とは、「なくてはならないもの」であることだけははっきりしているのだけど、それがなぜなのか、そう言うことを知らないと落ち着かない感じがある。

仏教やいわゆる東洋的な思想の方が西洋哲学より基本的には共感できるのだけど、ただ一つ芸術の性質というものについてだけは東洋的な思想では説明がつかないものがあるような気がする。あるいは、西洋哲学的な説明の方が納得できる感じがあると言えばいいだろうか。

ニーチェやショーペンハウエルを読んでいると、そのあたりが面白いなあと思うのだ。

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