攻撃の起点

Posted at 09/06/25

昨日。朝はごたごたして予定がなかなか決まらなかったのだが、昼前に出かけて松本へ。用事を済ませてすぐに帰り、食事をして仕事。夜10時まで。なんだか気持ちが忙しい。操法を受けたとき、腰痛の原因について「気が急いている」といわれた。最近いつもそうだ。気持ちが忙しいのが一番不調の原因なのだということはわかっているのだが、なかなかそれを乗り越えられず、気持ちが忙しい状態が続いている。

静かな時間を持つことと、集中して何かに取り組むことが、「頭が忙しい」状態を乗り越えるためには必要なのだと思うのだが、なかなか思うように行かない。今朝はモーニングとビックコミックを買ってさっきようやく読み終えたのだが、マンガというのは面白いのだけど真剣に読むには何か欠けたところがある。それは、読みながらいろいろなことを考える、というところだ。たとえば村上の小説なら、読みながらいろいろなことを考えるし、また発見したり驚いたりして、しばし読むのを中断することも多い。私は読むのが早い方ではあるけれども、それでも小説はそうスイスイと読むことはできない。逆に言えば小説の意味は、そうやって考えることにあるわけで、それが自分にしか読めないその小説の「行間を読む」ということなのだ。と橋本治が書いていたが、その通りだと思う。

マンガはストーリー展開も秀逸だし絵も魅力的だからどんどん読んでしまうが、その分そこで考えることが少ない。この絵をこう書いた意味、というようなことを考えるよりも、その魅力を味わうだけで十分だと感じるからだろう。それは、いわゆる「読みもの」的な小説や文章でもそうだ。読んでも考えることを必要としない親切な文章は、面白いから夢中にはなるが、そこから得るものは少ない。技術的に真似をすべきところはあるかもしれないが、考えさせられない文章というのはある意味読んでいて物足りない。

自分の文章というものを考えたときに、読者に考えさせることを目的としていろいろな仕掛けをしてあるかというと、ほとんどしていない。簡単に言えば、特にこのブログの文章などは、ほぼ思ったことをそのまま書いている。形を整えるために考えることはあっても、考えさせるため、立ち止まらせるためにどう書けばいいか、ということの工夫が足りないなと思う。しかしもともとブログの文章というのは、その文章を何時間もかけて読んで唸りながら考える、という類のものではないから、こちらもそういうスタンスで書いているが、そういう文章に慣れてしまうとそういう文章しか書けなくなる、という危険ははっきりとある。

読書をして、「取り組んでいる」という実感がある時というのは、やはりその行間を読む、書いてあることとかかれていないことの両方を読もうとしていろいろなものを総動員して読んでいるときだ。個人的なレベルの思考、社会レベルの思考、世界レベルの思考、女性と相対しているときに考えること、仕事のときの心の働き方、読むときそういうさまざまなレベルの思考を思い出し、登場人物の行動についてどう考えるかとか、あらゆる思考が頭の中で繰り広げられつつ字を追っているという状態。マンガだと、情景の想像を基本的にはあまりしないでいい。こうの史代の『夕凪の町・桜の国』などではそういうことをわざと制限することによって否応なく読者の想像力を刺激する、そういう手段が使われていたが、基本的には「余白」がないマンガというアートは想像力が働きにくい面がある。そのぶん感情がストレートに動きやすい。音楽の動かす感情とはまた違うところがあるが、マンガでは視覚は基本的には感情に向かって働いている。

いずれにしても、マンガを読んでも最近あまり没頭できないのは、思考をきちんと使わないと「読む」という行為が満足できないからだ、ということを思った。マンガは好きだが、「マンガを読むこと」が「自分のやりたいこと」ではない、ということなのだ、と思った。

ちゃんとものごとに取り組んでいるときは頭の忙しさは少し減る。頭が忙しいのは取り組めていないということが大きい。好きなことが「やりたいこと」とは限らない。

物を書くためには、ものを読むことから始まる、ということは多い。サッカーの攻撃がボールを奪うところから、つまり守備から始まり、攻撃に移るように、読むという受身の行為をしているときに受けた刺激が書くという能動的な行為の起点になる、ということだ。マンガは自分にとって、なかなかそういう「攻撃の起点」にならない。村上春樹の小説や発言を読むといくらでも書きたいことが出てくるから、できた作品の内容はともかく、「攻撃の起点」になる存在だなと思う。でも多分、村上の作品に耽溺するタイプのファンであったら、そういうふうにはならないだろう。私は村上の作品を読むといろいろなことを考える。考えてそれを言葉にしたくなる。書いてあることの意味がわからないと、その意味を知りたくなる。でも教えてほしいわけではない。それを考えるのが楽しいのだ。また誰かがそれについて書いているのを読むと、それは自分の解釈とは違う、自分はこう考えたい、というのが出てくる。村上の小説は、読んだひと一人一人に違う物語を作らせるところがある。イシグロなんかもそうだと思う。

しかし、『ねじまき鳥』以前の作品は、少ししか読んだことがないが、あまりそういうところがない。何を言いたいのか想像したくなる、ということ自体が少ない。読んでいてもあまり楽しくならない、といえばいいか。

読む人の「攻撃の起点」になるような文章を書きたい。そしてそれを読んだ人が刺激されて何かを書いて、それを読んだ私がまた刺激されてそれがふたたびこちらの「攻撃の起点」になる、そういう文章が書きたい。

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