読売新聞の村上春樹インタビュー:『1Q84』をめぐって

Posted at 09/06/17 Comment(4)»

昨日。10時半過ぎに出かけ、大手町で乗換え。丸の内丸善の前にX的な女の子たちが大勢いて何事かと思ったら、ヨシキの著作刊行記念サイン会が行われるということだったらしい。ダークスーツの男女が行き交う丸善の一階に異空間が出現していた。東京駅のキオスクで読売新聞を買う。朝mixiを見ていたら村上春樹のインタビューが掲載されるという情報があったからだ。一面に抜粋、23面に詳しく出ていたが、新聞のインタビューらしく語尾とかが適当に端折られているのでなんだか読みにくい。『モンキービジネス』みたいなだらだらした感じの方がずっと読みやすいのだが。でも要点は押さえられているという感じかな。上中下の三回に分けての掲載。村上が『1Q84』について語るのは初めてで、その意味で注目される内容だと思ったが、その他の部分では今までいろいろなところで彼が語ってきたことが中心だという印象を受けた。印象に残ったことをいくつか。

1Q84 BOOK 1
村上春樹
新潮社

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まず構想の出発点。オーウェルの近未来小説『1984』の逆の、近過去小説にしたい、ということ。これは以前からいろいろなところで語っている。もう一つが『オウム真理教事件』への関心。地下鉄サリン事件で8人殺害した林泰男死刑囚への関心。それを「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた――そんな月の裏側に一人残されていたのような恐怖を自分のことのように想像しながら、その状況の意味を何年も考え続けた。それがこの物語の出発点になった。」と語っている。

村上は『アンダーグラウンド』で被害者60人の話を聞いてまとめたということは知っていた。世間とは違い主に被害者に関心があった、というニュアンスのことを言っていたと思ったのだが、それだけでなく信者に聞いた『約束された場所で』という作品も書いているのだという。そういう意味では『1Q84』は彼の一連のオウム真理教事件を題材にした作品のひとつの決定版ということになるようだ。

このことは正直言って意外だった。確かに教団の本拠地を山梨県にするなど、オウム真理教事件との関連が感じられるところもある。教祖である「リーダー」の描写は、私は読んでいて麻原を想像させられた。娘がある大事なファクターを握っているというのも何か似ている感じはする。「リトルピープル」も、麻原がそういうものを見ていても不思議はないなと感じさせる存在ではある。青豆がリーダーを殺害する場面でも護衛にいる連中はオウムの白服集団をなんとなく思わせた。オウムの特徴は、「狂信集団」という感じがあまりしないことだ。なんというか、ものすごく「迷い」を感じるのだ。精神的な「迷い」があるのに行動としては迷っていない。そのあたりがすごく変な感じがして、なんだか現代的な感じもしていた。「狂信集団」というのは、普通はもっと「迷っていない幸せ」みたいなものを感じさせるところがある。辟易はするが、本人たちはきっと幸せなんだろうなという気がする。しかし、オウムというところは本人たちも幸せじゃないんだろうなという感じがするのだ。そのかんじがやや、護衛の男たちには感じられた。

たしかにそういう共通点はある、というか上にあげた中には今そう言われてみればこういうところはそうかも知れない、と思ったところが多いのだけど、私が読んだときには、もっと学生運動のセクト性とか、コミューン運動みたいなものが舞台になっているという印象が強かったのだ。そういう意味では私の中でもオウム真理教の存在は急激に陰の薄いものになってきているのかもしれないと思う。村上に「オウム真理教事件が構想のきっかけになっている」と断言されてしまえば、そう言う角度からも見直してみなければ、と思わざるを得ない。だがもちろん、そういう集団の持つユートピア志向の性格とか、そういうものの共通性はあるわけで、村上がそういうものをどう考えるか、ということに関しては、基本的には信じてはいない、という感じはするが、どこかやはり保留状態という部分もある気がする。

まず問題にしているのは「倫理」で、「絶対的な正しさ」のない現代にあって白黒は入れ替わり得るというか、「正しいと思ってやっていたことがいつのまにか重い罪になってしまう」ということに触れている。これは先に述べた林泰男の例そのものだろう。「罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった。」と。作中で「リーダー」は幼い娘たちと交わったということで殺害さえされるが、同じ方向の行為を主人公である天吾もしている。このあたりのところは読んだときはあまり重大に考えなかったが、村上がそういうならばこのあたりに何か意味があるのかもしれないとも思う。

「自分のいる世界が本当の現実世界なのか」というテーマ、総合小説への志向などは「モンキービジネス」で語ったことと同じで、「モンキービジネス」の中に書かれていることの方がより詳しい。

ユートピア志向に関する保留状態、ということについてはこのように述べている。「僕らの世代は結局、マルキシズムという対抗価値が生命力を失った地点から新たな物語を起こしていかなくてはならなかった。何がマルキシズムに変わる座標軸として有効か。模索する中でカルト宗教やニューエイジ的なものへの関心も高まった。「リトル・ピープル」はその一つの結果でもある。……(リトル・ピープルは)神話的なアイコンとして昔からあるけれど、言語化できない。非リアルな存在としてとらえることも可能かもしれない。神話というのは歴史、あるいは人々の集合的な記憶に組み込まれていて、ある状況の中で突然、力を発揮し始める。たとえば鳥インフルエンザのような、特殊な状況下で起動する、目に見えないファクターでもある。あるいはそれは単純にわれわれ自身の中の何かかもしれない。」と。

この発言は単純に読み解くことは難しい。マルキシズムはまず「対抗価値」として、また「座標軸」としてとらえられ、それに代わるべきものが何か、という方向で考えられている。もちろんマルキストにとってマルキシズムは「対抗価値」などではなく、「理想」であり「実現されるべき真理」であったはずだ。だからこれは村上のマルキシズムに対するポジションを明確に示している。彼にとって現代社会のメインストリームたる価値観、もちろんそれは資本主義的・自由主義的な価値観に対抗すべきものであり、それ以上でもそれ以下でもない。村上において、その「理想」の中に飛び込んでいく、ということはほとんど考えられないことだっただろう。そこのいわば「醒めたポジション」が村上の魅力の源泉であり、また村上嫌いを生む大きな理由だと思う。村上自身の言葉でいえば「デタッチメント」だ。メインストリームの価値にも対抗価値にも積極的には関わらない。それが我々の世代、いわゆる「しらけ世代」とか「三無世代」と言われるような世代の社会へのかかわりかたと共鳴するところが非常にあったのだと思う。

しかし、マルキシズムは不必要であった、と切り捨ててもいない。そこは明らかに資本主義・自由主義を永遠の基盤として「歴史の終わり」を生きようとする立場とは明らかに異なる。マルキシズムにコミットする気はさらさらないが、「座標軸」としての価値は認める。すなわち、現代の社会、普通に生きる現代の人間を映す鏡として、座標軸との距離を測ることでそれらのものが忽然と立ち上がってくるような存在としての有効性は認めている。『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』に見られるような「戦前の日本」への批判の道具として、マルキシズムとそれから派生した価値観を使っている。だから私は「村上は基本的に左翼だ」と思っていたのだが、もちろんそれは我々の世代に立ち上がった新たな保守的な価値観から見てそうなのであって、村上の世代の基準から言えばとても左翼と言えるような代物ではないだろう。

しかしそうしたマルキシズムの座標軸としての有効性も衰えていることを村上は自覚しているわけで、その中でそれに代わりえるものとしてカルトやニューエイジ的なものも参考にしようとも考えてみたということなのだろう。もちろんそれは座標軸としてであって、村上としてはマルキシズムに対してと同様、コミットしようと言う気はないだろう。

「神話的なアイコン」としての「リトル・ピープル」が新たな座標軸になりえるのではないか、と言ってるのかどうか、ということもよくわからないが、少なくとも物語中では「リトル・ピープルに受け入れられ、利用されるもの」としての「リーダー」と、それに反旗を翻したものとしての「ふかえり」が描かれている。神話的なアイコンは「リトル・ピープル」だけでなくある種の神聖婚としてのリーダーとふかえりたちとの交わりや、青豆の唱える呪文、「猫の町」、などなどさまざまなものが描かれている。それが十分に描かれているかどうかは疑問で、『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』の中でもそのあたりのところは明確に描かれているわけではない。村上自身も、それらは「目に見えないファクター」であるとも「われわれ自身の中の何か」であるとも言っている。そういうものだから、もちろんマルキシズムに代わり得るような明確な座標軸ではないことは確かだ。しかし明確でないからこそ力を持ち得る、と言っているようにも思える。

これは次に書かれている原理主義との問題とも関わっていくと思われるのだが――というより私は「リトル・ピープル」というものに原理主義的なものを強く感じたのだが――、原理主義に関しては村上は明確に否定している。

エルサレム賞関連の騒動について、「(インターネットの議論は)僕が受賞するか拒否するかと言う白か黒かの二元論でしかなく、現地に行って何が出来るかと一歩つっこんだところで議論されることはほとんどなかった。」と批判しているが、それは主体たる村上自身はできても野次馬にはできないことだろうと思う。私自身は行くべきとも行かないべきとも思わなかったが、村上が行って何を言うのか、どう行動するのかということについては関心があった。だからあのスピーチについてかなり考えさせられたし、今でもよくわからないところがある。ただ、「原理主義やある種の神話性に対抗する」、それはたとえば「国家と言う神話」、「大義と言う神話」、=「システム」に対抗する、という姿勢の表明であった、ということはわかってきた。村上は徹底的に、何かの思想に寄りかかろう、依拠しようということを拒否しようとしているのだろう。

それもまた一つの思想ではあると思う。「卵の側に立つ」という思想だ。しかしそれが思想としてどれくらいの強さを持ちえるのか、どのくらいの有効性を持ちえるのかはよくわからない。夏目漱石の「則天去私」という思想がやっぱりあんまりよくわからないのと同じように、あんまりよくわからない。まあ、優れた作家というのは徹底的に個人主義だ、という意味でいえば、社会というものから作品を見ようという視点が少しでもあるこちらから見るとそこが理解できない一点であるのかもしれないとも思う。結局、「理解はできるけど、それでいいのか?」という気持ちがどうしても消えない部分があるのである。

物語の重要性について繰り返し語っていることは、だんだん了解できてきた。「作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと思う。物語は残る。……物語というのは丸ごと人の心に入る。即効性はないが時間に耐え、時とともに育つ可能性さえある。インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。……小説家は表現しづらいものの外周を言葉でしっかり固めて作品を作り、丸ごとを読む人に引き渡す。……読んでいるうちに読者が、作品の中に小説家が言葉でくるみこんでいる真実を発見してくれれば、こんなにうれしいことはない。」『1Q84』では、今までにもまして「外周を言葉でしっかり固め」た作品だという印象を受けた。作家とはこういうもの、ということで、村上は自分がこれから目指すものを語っているのだと思う。

「意見」については、「「壁と卵」の話をいくら感動的と言われても、そういう生(なま)のメッセージはいずれ消費され力は低下するだろう。」という見方を示している。そこはやや微妙だと思うが、しかしまあそれは村上の小説家としての矜持を示しているともいえるだろう。「物語」ではなく、たとえば「箴言」で言葉の強さを維持していくという方向もないわけではないからだ。「神の見えざる手」という言葉ほど影響力を持っている物語がどのくらいあるかと考えると。たとえばマルクスなどもこういう手の言葉を操る名手であったわけで、それは毛沢東やレーニンもそうだ。……まあそれこそが原理主義であり、ある種の神話で、小説家が打破すべき対象だ、ということになるのかな。「ひとことで語られる「真理」」と「多くの言葉で語られる「物語」」こそが本当の対立軸なのかもしれない。

以上6月16日掲載分の「上」について。

***

以下6月17日掲載分の「中」について。本日分の内容は大きく四つに分けられる。『1Q84』執筆の過程について、「現在を生きて成長しつづける若い人」への興味、「暴力と性」の重要性、そして「続編はあるか」という問いに対する「このあとどうするかということは、ゆっくり考えて行きたい。」という答え。

最初に全体の構成を「バッハの平均律クラビーア曲集のフォーマットに則って、長調と短調、青豆と天吾の物語を交互に書こう」と決めたのだという。それから二人の名前が浮かび、これで小説は出来たと確信した、という。二年間、完成への確信は一度も揺るがなかった、そうだ。十歳で出会って離れ離れになった30歳の男女が、互いを探し求める話にしよう、そんな単純な話を出来るだけ長く複雑にしてやろう、と思ったのだそうだ。そういう意味で確かに構成がきちんとしていてすごく読みやすい感じはした。

作家を続けていくうちに自分より年齢が低い少年や女の子のことを書けるようになってきて、今回の作品では女性の感じ方や考え方をよりつっこんで書いてみたのだという。何度も書き直して造形を調整し、描写の言葉一つ、一行の文章の差し替えで人物が立ち上がったりもする、という。このあたり、小説を書くことを本当に楽しんでいるなと思う。

暴力と性は、「人の魂の奥底に迫るための大事な扉」だという。確かに、人間性というものを追求しようという作品には、村上のものに限らずそういう要素は出てくるし、出ざるを得ない面があるのだろうなと思う。人間を社会の中のものとしてでなく、個人と見ようとするとき、究極の他人とのかかわり方である性と暴力を避けては、その描出が不完全になるということは理解できる。

続編に関しては、相変わらず気を持たせるのが上手い。まあこの調子では、続きがあるのではないかという気がするな。AERAか何かの記事には、編集者か誰かの「ここで終わりだと確信した」というコメントが載せられていたが。

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大不況には本を読む (中公新書ラクレ)
橋本 治
中央公論新社

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橋本治『大不況には本を読む』現在122ページ。村上春樹論とだいぶのりが違い頭が切り替えられないので雑感風に書くが、橋本は村上より個人というより社会よりの作家ではないかという気がする。橋本はマイノリティーをかわいらしく健気に書くのが上手く、また普通の男の子や女の子を超ウザく書くのが上手い。ある魂への共感性とか、あるあり方への反発みたいなものを感覚的に取り出すのが上手い。センス、という点では多分、橋本の方がずっといいと思うし、どちらがおしゃれかといえば橋本の方がずっとお洒落だろう。それはおそらく、世間的なイメージとはかなり乖離しているが。

橋本は物語も書くがそれは感覚的に魂の美しさみたいなものを書くのが上手く、世間に伝えるメッセージという点ではエッセイを書くことが多いように思う。このあたりは村上の行き方と全然違う。橋本の面白さはなかなか理解されず、村上には固定ファンがついてしかも野次馬までどんどんよってくるというのはどこに違いがあるのか。橋本が基本的にコメディタッチで書き、村上はトラジディックに書く、という違いだろうか。日本人受けするのはトラジディであることは間違いないが。

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昨日はところどころかなりの雷雨があったようだが、今日は長野県はよく晴れている。

"読売新聞の村上春樹インタビュー:『1Q84』をめぐって"へのコメント

CommentData » Posted by shakti at 09/06/17

>作中で「リーダー」は幼い娘たちと交わったということで殺害さえされるが、同じ方向の行為を主人公である天吾もしている。このあたりのところは読んだときはあまり重大に考えなかったが、村上がそういうならばこのあたりに何か意味があるのかもしれないとも思う。

お、村上、言ってくれていましたか。私も注目していたところ、ただし、巨乳なので罪が軽くなる? 

>神話的なアイコン」としての「リトル・ピープル」が新たな座標軸になりえるのではないか、と言ってるのかどうか、ということもよくわからないが、少なくとも物語中では「リトル・ピープルに受け入れられ、利用されるもの」としての「リーダー」と、それに反旗を翻したものとしての「ふかえり」が描かれている。

ここが面白いですよね。ふかえり(読字障害)+テンゴ(作家、文字の人)とが組んで、それが対抗聖書にもなりうるし。。。おそらく小説=物語なので、そういう一次元的な者に陥らない文字(=物語)への可能性となる。 ふかえり+テンゴはアラーの声を聴く書記官たちにはならないはず。

ところで平均律は全二冊で終わりなんですけれど。こんどはシスタコビッチとかのピアノ曲がでてくるのか? フーガの技法とかだと嬉しいが(意味不明)

CommentData » Posted by kous37 at 09/06/17

誤解のないように付け加えますと、村上が天吾とふかえりの交わりについてコメントしているわけではありません。林泰男が「正しいこと」をやっているうちにいつのまにか死刑を宣告された、ということの作中での例を考えると、リーダーと天吾のふかえりたちとの交わりということになるのではないかと、shaktiさんの指摘が頭にあって、私が思っただけです。

ギリヤーク人の話にふかえりは共感を示し、猫の町の話には「お払い」が必要だというふかえりの判断が、「リトル・ピープル」たちによる判断と鏡の裏表なのではないかという気がします。何がよくて何がまずいのか。フィクションはお払いが必要でノンフィクションはそうではないのか。よくはわかりません。

CommentData » Posted by shakti at 09/06/17

>「リトル・ピープル」たちによる判断と鏡の裏表なのではないかという気がします。

テンゴのせりふで、リトルピープルと、ギリヤーク人とふかえりが森の人だというのがあります。また、ふかえりは、リトルピープルにたいして中立的な立場だという感想もありました。意味ありげでしたよね。

作家は、森の人を観察し、記録し文字化するわけですが、これは作家論・文学論となっていますよね。村上自身のオウム被害者インタビュー記録体験、ふかえりの作品のテンゴの書き換え、む文字文化ギリヤーク人を記録するチェーホフだとか、様々な題材をとりあげて共通するテーマを繰り返しているのですから、面白いですね。

CommentData » Posted by kous37 at 09/06/18

文字にかかれないものを文字化するのが作家だとしたら、それはどういう意味を持つのでしょうか。リトルピープルは明らかに文字化されることを嫌っていますよね。でも同じ森の人であるふかえりは文字化されることを望んでいる、というか少なくとも否定してはいない。

文字化されて近代知の中に取り込まれることは、ギリヤーク人などにとってもひとつの悲劇かな、という感じ方はあると思うし、私はどちらかというとそういう感じがしました。しかし文字文明の中に生きているオウムの被害者は文字化されることによって明らかに救済されている側面がある。

リトルピープルは人間性の本質みたいなもので、書かれたがっていたりそれを拒絶したりしているのかもしれない。そうであるとしたらもちろん書き尽くされることは不可能ですし。白雪姫でも七人の小人と白雪姫は共生しますが、やがて白雪姫は現世に戻っていく。小人の世界はある種のアジールに過ぎないともいえる。作家が書くという行為は、そのアジールの秘密を暴露する可能性もあるわけで、それが拒絶にも繋がっているけれども、ふかえりはそういういことはあまり心配していない。そこから「猫の町」に行ってしまった人も引き返させるすべを持っているからなんでしょう。

この物語の終わりは、天吾も青豆もふかえりも、その他のたくさんの人々も相当宙ぶらりんの形でストップモーションをしており、また魔法が解けることによって動き出す人物みたいに見えます。

この後村上が書きつづけるかどうかも、リトルピープルによる判断にかかっているのかなと、そんなことも思いました。

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