梅田望夫の目指すもの/村上春樹『1Q84』についてまた/小林よしのり『天皇論』

Posted at 09/06/07

昨夜帰京。今午後1時40分。東京は暑い。信州と同じ服装をしていると暑くて仕方がない。Tシャツ一枚でパソコンを打つ。昨日はいつもと同じ7時間の特急に乗る。それまでの仕事はもうひとつ暇だった。特急の中では駅売りの朝日新聞を読んだ。たまに新聞を読むと面白い。

地元に戻ってきて駅前の文教堂で簡単に本を見ていたら、小林よしのり『天皇論』(小学館、2009)が出ていた。最近小林よしのりはあまり読んでないが、SAPIOをときどき本屋で立ち読みすることはある。今回は、小林がずいぶん力をいれて書いていることは知っていたので、少し迷ったが買った。帰って来てずっと読む。気がついたら3時になっていた。読了。

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書こうと思っていることはたくさんあるのだが、どうも言葉が出てこない。一度書いてしまったからかな。短くいくつか書こう。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)
梅田 望夫
筑摩書房

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一つ目。梅田望夫が『ウェブ進化論』のようなウェブ評論から手を引くことを宣言したような感じの記事について、それは残念なことだ、というようなことを昨日書いたのだけど、梅田のブログや他の人の梅田の近著『シリコンバレーから将棋を観る』についての書評をなどを読んでいると、梅田はウェブ評論から撤退したのではなく、むしろ彼の真意は『ウェブ進化論』のような形ではない形でウェブの未来を追求していくことにあって、そのために将棋が重要な補助線になっているのではないかと見る必要があると思うようになった。どうも自分が読み違えていたと言うか読み足りなかったと思う。

インタビュー記事と言うのはインタビューされている人の真意が現れていると思いがちだが、インタビューした記者の側が勝手に編集する部分が多いわけで、そういうものを一次資料として判断するのは危険だ、と肝に銘じた次第。せめて本人のブログや本人の近著に当たってから書けばよかった。失敗失敗。

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1Q84 BOOK 1
村上春樹
新潮社

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二つ目。村上春樹『1Q84』。ネット上でもまだまだ続々といろいろな見方が示されている。今日当たり、新聞の書評欄にも出てるのかもしれないな。ネット上の友人ともいろいろと議論したりしたのだが、一つは「リトルピープル」と反「リトルピープル」。作中のさきがけというカルト団体が、「リトルピープル」の影響で作られていく話が出てくるが、ふかえりはそこを脱出し、反リトルピープルの動きを立ち上げる。それと連動して出てくるのが老婦人と青豆による「リーダー」殺害の動きだが、この動機を始め老婦人のいうことが教条的なんじゃないかという指摘があって、なるほどと思うところがあった。

反リトルピープルの動きというのは、現実社会で言えば統一教会からの信者救いだしとか、脱洗脳の動きということになるだろう。それがある種教条的であることはよくわかる。ただ、そこは教条の力を借りないと出来ないことでもあるのではないかと思う。毒を制するには、毒を用いなければならない。

その場合の教条は、「常識」というものだ。飯干晃一が娘の飯星景子を統一教会から救い出したときも、オウムの信者の脱会工作も、弁護士たちや飯星父の強力な武器は結局「常識」だった。つまり、統一教会やオウム真理教は「非常識」だったからこそ糾弾され、そこを突くことによって脱会工作を成功させたわけだ。

これは、北朝鮮からの拉致被害者の奪還の手法としても援用されている。北朝鮮はまがりなりにも国家だから日本の常識がそのまま通用するわけではない。だから利益をちらつかせたり、経済制裁を課したり、さまざまな手法を使ってるが国民世論、国際世論を盛り上げたのは非常識なことをして許せない、特に子どもを拉致するということに対する強い反発を利用しているわけだ。それを国際的に通用させるために「人権」理論を援用している。オウムや統一教会と違い、北朝鮮はなかなかしぶといですが、世論的には「常識」が最大の武器で、その場合の常識はやはりある種の教条だし、だからこそ力を持ちえるという面がある。

ただ、これはうまく行くまではそれでいくしかない、戦術上はなかなか他の手は考えられないが、より穏健な、「常識を超えて新たな地平を切り開く」試みに対してもその刃を向けられる可能性はなくはない。それが「反リトルピープル」の動きの教条性につながりえるわけで、まあその指摘まで行かないとあえて2009年にこの話題を取り上げる意味はないかもしれない。そういう意味でも、村上には続編を期待したいと思うし、これを書きながら、私の中にわだかまっていたものが「常識という教条」の「両刃の剣」性に対する若干の懸念、ということなんだなということが分かった。

正直このあたりのことについては自分の中で決着がついていないし、何か起こるとしたら未来に属することでもあるので、今もなお現実がどう発展するか分からないペンディング状態なテーマなんだと思った。そう考えるとずいぶん射程の長い小説だということになる。

もう一つ別のテーマ。ここ数日で見たうちで興味深いのが内田樹によるもの。内田は村上春樹読みで、本も何冊か出しているが、今回もまた彼独特の読みを示している。ここで彼が指摘しているのは「父」の問題。内田はさきがけなどの存在をすべてひっくるめて、またイェルサレムスピーチで述べた「壁」の問題、システムの問題もすべてひっくるめて「父」と表現し、その父権性イデオロギーからの離脱こそが村上のテーマであるとしている。

確かに言われて見れば村上は「父」に触れないことがその作品の特徴だった。『海辺のカフカ』で「父殺し」が出てくるが、まだやや抽象的だ。しかしこの作品ではいやというほど「父」が出てくる。天吾の父、青豆の両親、「リーダー」たるふかえりの父、ふかえりの保護者である老人類学者、タマルの父、天吾の文学上のメンターである小松、あゆみに深刻な影響を及ぼす性的ないたずらをした兄と叔父、これも父の代用だろう。「父の呪縛」があらゆる人に及んでいる。このあたり、普通の小説では全然珍しくないことなので逆に気がつかなかったが、村上では非常に珍しいことだと言う事に気がついた。

だから最後に青豆も天吾も「父の呪縛」からの離脱が成功するところで物語が終わるのだという。なんかその解釈でいいのかどうかはよくわからないが、でもこういう読み方もわからないことはない。私にとってはそういう意味での「父」というのはどうも拡散した状態になっていて、離脱するもいないもまずその不確かな実態を認識しないとはじまらない感じがある。自分にとってはそのあたりの手ごたえのなさが難しいところであって、むしろ「改革志向・革新志向の父」を乗り越えるために伝統への復帰こそが自分のテーマになる、という感じがあった。だからそういう意味では、村上こそが乗り越えなければならない存在だ、という結論が出てくるのだが、まあとにかくまだまだこの小説から引き出せるテーマはたくさんありそうだなと思ったのだった。

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ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論
小林 よしのり
小学館

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三つ目。小林よしのり『天皇論』。SAPIOでこのところずっと天皇を論じていたのを時々読んではいたが、それがついにまとめられ上梓されたのがこの作品。とても力が入っている。表紙が何しろ二重橋、帯には天皇陛下の肖像が描かれている。章の変わり目の空きページにもこの肖像画が描かれていて、ちょっとそれは載せすぎなんじゃないかと思ったけど。

小林よしのりはいつも一生懸命描くが、今回はいつにも増してかなり一生懸命描いている感じがする労作だと思う。内容的にそんなに目新しいことが描かれているわけではないが。(しかし天皇について、ないしは戦前の国家論についてあまり知らない人にとっては情報満載だと思う。そういう意味で天皇というものをこれから勉強しようという人にとっては入門書として使いやすいと思う。……よく考えて見ると、テレビに出てくるような論客も天皇機関説についてちゃんと知ってるとは思えない発言をしたりするから、ほとんどの人にとって走らなかったことが結構あるのかもしれないとあとで思いなおした。まあそのあたり、小林の意見だけでなくもっと調べて見るとより客観的に分かることもあると思うが、なかなか適当な本もないのが実際のところだ)

小林の作品は、『ゴーマニズム宣言』を最初に読み始めた頃に強くあった「こんなことまで書いてしまうのか」という衝撃が最近はあまりなくなってきている。小林ならこのくらいは書くだろうとか、小林ならもっと書けるのに、という感じになってしまうことの方が最近は多かった。しかしこれは『戦争論』と並ぶ労作だろう。それをそう感じさせるのは、この『天皇論』が小林の自己成長の記録でもあるからだ。

子供のころ、国民主権という概念を学んだとき、小林は「要するに天皇って我々の意のままか!我々の方が偉いんだな!」と思ったという。まあそれは読んでそのまんまで、教師の側も大体そういうニュアンスで教えるだろう。国民主権はもともとフランス革命のときに出てきた概念で、絶対王政下で国王が主張した主権と言うものを国王から奪い、「国民」という抽象的な存在が持つ、としたところに起源がある、要するに革命思想であるから、当然そうした考えになる。小林の指摘で気がついたが、言われてみたら合衆国憲法には国民主権の規定がない。合衆国憲法は前文の書き方が日本国憲法と同じなので(というか合衆国憲法を範としてGHQが作ったから当然なのだが)当然書かれていると思ったが、合衆国人民がこの憲法を制定する、とは書いているが、日本国憲法のように「主権が国民にあることを宣言」したりはしていない。

この革命思想たる国民主権概念で多くの人が天皇の存在について否定的な感情を持つようになるという指摘はまさにその通りで、私も子どものころは天皇というものが何のためにいるのか全然理解できなかった。しかし、幸いなことに私は子供のころから歴史が好きだったので、歴史上にいろいろ活躍した天皇がいたことは知っていたから、そのこともわりと相対化して見られたと思う。楠木正成の活躍とか、和気清麻呂の活躍などによって、天皇というものが日本の国にとってかけがえのない存在なのだ、という考え方は既に知っていたからだ。

小林が子供のころ、そういう天皇に対する否定的な感情を持っていて、そこからつよい個人主義をもち、いろいろな過程を経て天皇という存在を日本という国に不可欠な存在と認識していくまでの道程がよく書かれていて、だからこの『天皇論』はそこにむしろ小林の精神的成熟の過程を見出して感動する、というような本なのだ。内村鑑三とか聖パウロ、ドストエフスキーが描いた『罪と罰』のラスコーリニコフや『カラマーゾフの兄弟』のドミトリー・カラマーゾフの回心に通じるストーリーが描かれていて、そこに文学的な薫り高ささえ感じる。

私自身は、このテーマについては今までもさんざん考えてきたので、新しい情報がそんなにあったわけではないのだが、なるほどと思った点が二点。

一つは昭和62年に昭和天皇が倒れた雨の続いた秋、昭和天皇は病床で稲の作柄を心配していたことが描かれている。当時は日本市場の農業分野の開放問題でアメリカと大変な交渉が続いていたのだが、日本人の稲作に対する意識を象徴するこの出来事で、アメリカ側も市場の開放要求を取り下げたと言う話だ。これは日本人にとっては当然の話だが、アメリカ人にとっては稲作への特別の思いというのはある種の神秘的なものだろうと思う。神秘を無理やり世俗化させていくのが近代というものだが、民族感情というのはそんなに単純なものではない。

もう一つは、トルーマンは原爆実験に成功したから、グルーら国務省知日派が作成したポツダム宣言の原案から君主制維持条項を削除し、日本が降伏しにくい状況を作って原爆投下を実行した、という話だ。つまりトルーマンは戦後の対ソ優位を確定するため、あるいは原爆の実際の投下実験を行うために、天皇の存在を利用したと言うのである。このあたりの歴史の経緯というのはアメリカの政治過程の話なので、私もあまりきちんと調べていなく、どうもよく分からない部分も多いのだが、そういう筋立ては十分ありえると思った。

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どうも昨日夜更かししたせいか、暑いからか、調子があまりでない。日記を書くのにずいぶん時間がかかってしまった。書く内容が多岐に渡ったせいもあるけれども。短くはならなかったな。

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