東村アキコ『ひまわりっ』4~5巻/女性はなぜ「私のどこが好き?」という質問をするのか

Posted at 09/05/22

ひまわりっ~健一レジェンド~ 4 (モーニングKC)
東村 アキコ
講談社

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昨日。『ひまわりっ』の4巻5巻を読む。だんだん自分の読むペースが出てきた。このマンガは事実ベースのところとほとんど完全にフィクションのところ、デフォルメしすぎたために完全にフィクションになっているところがあると思うが、基本的に事実ベースのところよりも事実に触発されて出てきた話の方が面白い気がする。

ただ節子に関するところは別、というかどこまで事実でどこまでフィクションなのかがよく分らない。今までつかみどころのないキャラだった黒木が節子とともに動くることでブラックな側面が(徹底的に受身のブラックだが)如実に現れてこれがすごい。節子が黒木の友人に携帯を売りつける場面などはおそらく事実ベースだろうな。しかし父健一の行動はフィクションに仕切れていない感じがするけれども、節子と黒木の行動はフィクションとして上手くこなれていると思う。それは作者からの距離の問題なのかもしれない。近すぎると完全に客観化してギャグにするのは難しい、ということなのだと思う。

それにしてもこの節子というキャラクターは最初はインパクトがあるだけのただの嫌な女だったがどんどん成長している。こうした徹底的に自分本位で、相手の好意とかがもしあっても意に介さない、権力者にはおもねりライバルはだまし弱者は徹底的に利用する、それで楚々としたおかっぱ美人、というのは女性から見た女の敵というものをみごとに体現していて、その典型性がこのキャラクターを強度と硬度のあるものにしている。ツヨクテカタイ。(この表現、穂村弘が使っていてあんまり好きじゃないけど使いやすくて困る。他の言い方できないかな)

それでいて、宮崎県でもものすごい山奥の出身で、母との電話の言葉などは全く解読不可能な方言でやり取りしていてそういうところがキュートだ。(だめじゃん(笑)。私もひっかかってしまう男のひとりかな)徹底的に策略家で主人公はすぐにひっかかってしまうのだが、天然の健一(1号も2号も)には歯が立たず、策士策に溺れる的な落し穴に嵌るのも微笑ましい。未熟でキュートな策士。ドロンジョ様かい。深キョンバージョンの。

つらつら考えてみると、おかっぱ美人の悪女、というのは一つの系譜がある。まず思い浮かんだのは『王様の仕立て屋』のベアトリーチェだ。目的達成のためには手段を選ばない。ひねくれた頑固で孤独な老人が実は占星術を頼りにしていることを知っていて、星回りのいい日に一気に営業をかけて物にしてしまうというある種の洗脳まで辞さない。ただ彼女はそれが全部徹底的に会社のためなので、そこは節子とは違う。最近あまり出て来なくなったが、また活躍してほしいもの。一時、「王様の仕立て屋」の女の子キャラの内人気ナンバーワンだったが、今はどうだろうか。

さらにさかのぼると、って言うかだいぶ古いが、『ストップ!ひばり君』の高円寺さゆりがいる。これは薬師丸ひろ子の形態模写だが、未熟というより間抜けでキュートな策士だ。『ひばり君』は基本的にほのぼの路線なのでやくざや私立探偵が出てきても基本的にみなどこか間抜けだ。間抜けな策士というのはドタバタには欠かせない。タイムボカンシリーズとかも結局同じだな。

節子が間抜けで終わらないのは、『ひまわりっ』がただのドタバタではなく、作者東村アキコの自伝マンガという性格があるからだろう。やはり健一2号をめぐるライバルだから、その一点においてどうしてもシリアスになる。それが節子の性格に深みを与えていて、とても面白くなるのだと思う。

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文藝 2009年 05月号 [雑誌]

河出書房新社

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お昼はひとりだったので用意してもらってあったとんかつを自分で揚げて食べる。『文藝』の続きを読む。

谷川俊太郎と穂村弘の対談はいろいろと触発されるところがあった。小説家の対談というのはへえと思うけれども自分の創作にあまり影響しそうなことがなかなかないのだけど、詩人と歌人の対談であるからか、すごく自分の創作の内奥まで響いてくるような電波が感じられる。やはり私はポエジーという電波にいちばん強く感応するんだなと思う。

次の角田光代と穂村弘の対談も面白い。この対談の面白いところはいくつかあるのだけど、ひとつは谷川との対談の流れ、つまり言葉には水平方向の言葉、死を回避するための言葉と垂直方向の言葉、生きるための言葉の二つがあるということに関してだ。死を回避するための言葉というのはつまりコミュニケーションのための言葉、穂村の表現でいえば「ねえマスター最近どう?」というような言葉であり、垂直方向の言葉というのはつまりは詩の言葉、日常を立ち止まらせてしまうような言葉のことをいっている。社会内存在でしかない人、つまり言葉をコミュニケーションの手段としかとらえない人にとっては詩の言葉はとらえようがない。そういう人と会話の中から詩が立ち上がるような会話をしようとしてもそれは無理であって、またそういう人に詩を読ませても「そこ(社会的ネットワーク)から漏れたどのような言葉も通じない。だから僕が真剣に何かを言っても「またまた」とと笑われて冗談だと思われる。なぜならその言葉の反社会性に対して、相手が知ってる中でいちばん近いものが「冗談」だから」だ、という指摘はなるほどと思った。

私はもうそういうのは面倒くさいから相手が冗談だと受け取ったらハイ左様でございます、とスルーすると思うけれども、その点穂村はいちいち反応するところが偉いといえば偉いと思う。だから本気と冗談は実はよく似ていて、突飛な冗談は実は非常に深いところからの本気だということはよくあることだ。しかしそこで相手がそれをちゃんと受け取ってくれなければ社会内コミュニケーションを離れたそこにいる二人によって成立する世界は成り立ちようがない。詩を書いたり短歌を書いたりするのは読んでくれる人との間でそうした世界を成立させるためのものであることは確かで、それは現実には成立しにくいからこそ敢えてやる価値があることなのだと思う。

しかし、いちばん面白かったのは、女性がよく言う「私のどこが好き?」という質問についてのやりとりだった。この思考は女性にとっては大事なものらしいが、男にはそういう発想自体がないので何を聞かれているのか全然分らないのだ、というのが面白い。男は、少なくとも私は、好きになるときは全体的に好きになるのであって、どこどこがいいから、と言葉でいえるようなものではない。好きだから好きなんだ、というトートロジーがいちばん真実だと思う。

しかし角田によれば、女性は彼のどこが好きかいつも認識していて、「いつも言いたくて言いたくてたまらないし、内面も外見も混ぜて「こことこことここ」って箇条書きにできるんですよ。聞かれたらいつでも淀みなく答えられます。」と言っていて、これは正直言ってカルチャーショックだった。私は女性との会話は成立するほうだと思うし、確かにどんなものに対してでも「今のあれはこことここがよかったね」的な会話はしょっちゅうするけれども、確かにそれは半分は女性へのサービスで、半分は自分の感覚を覚醒させるためだ。なんとなくいいではなく、こことここがいいということによって自分の感覚が何を志向しているのかを確かめないと、自分が好きなものがよく分らなくなってしまう、ということがある。

しかしそれは何かの作品とか景色とかに関してであって、相手の女性そのものにそういう「評価」をすることはなんだか根本的に「失礼」な気がしてしまうのだ。肩が華奢な感じが好きだ、といったら他にも肩が華奢な人はいるわけだし、こういうしぐさが好きだ、といっても似たようなしぐさをする人が他いにいないわけではない、と思ってしまう。つまり相手を一人しかいない他に代えがたい特別な誰かととらえるのではなく、類型的なワンノブゼムとしてとらえているような気がしてしまうのだ。

しかし角田のいうことを読んでいてそうかと思ったのは、それがいくつもあることが大事なのだということだ。男は「私のどこが好き?」と聞かれたら一言で「ここ」、とズバリ答えなければいけないと思ってしまう。それは男が、「ズバリ」的なコミュニケーションを好むからなのだが、女性もそうだと思ってしまうところに誤りがあるのだ。女性はむしろひとことで「決まる」ような言葉ではなく、継続的な一連の流れみたいなものに身を委ねることが好きなのだと思う。(いや私は女性ではないのでとんでもなくずれたことをいってるかもしれませんが)だから、「ここ」とひとことでいわれてもどんなことを言われてもひとことでは不満なのだ。こことこことここと、といくつもいわれることで確かに他にいない自分の像が形成されていくわけだから、(もちろんそれは相手のとらえる自分なわけだけど)それが見えてくるとああ確かに私は愛されているんだろうなと感じて満足するのではないか。

この会話には前段があって、穂村が「私のどこが好き?」って聞かれたときに一番正解になる可能性が高い答えが「顔」っていうのを教えられて酷く納得した、という発言を受けての会話なのだ。この穂村の発言自体が角田にとってはひどく心外だったようで、それはまあ上記のように考えればよくわかる。「だから「顔っていっときゃいい」とかそういう話じゃないんですよ。それは悲しい。」と言われてしまうのである。「悲しい」と言われたら男はおろおろするばかりだ。(笑)「日本人じゃなかなかいないですよ。「俺のどこが好き?」って聞かれたことはありますか。」「それが聞いてくれないんですよね。質問するときって、私も聞かれたくて聞いていることもあるんですけど、男性は聞かれたくないから私にも聞き返さないんですよ。」ということになる。

「「顔って言っておけば無難」という男性たちの共通認識にちょっと打ちひしがれました。「早く終わりたかったんだ、その話」ってようく分りました。」「……いつものように角田さんがだんだんこわくなってきました(笑)。」この辺は笑うしかないが、彼女が何を考えているか分らないとお嘆きの貴兄には参考になりますな、みたいな話だった。

これは多分、男が全体を把握してだんだん部分に下りていく、大概の場合は降りていかないことも多いが、という認識構造であるのに対して、女が部分をしっかり把握することによって全体感を構築する、という認識構造であるということ、ではないかと思った。だから男のものの捉え方は大雑把になるし、女性のもののとらえ方は細かいなという感じになる。でも細かくとらえてどことどことどこが好き、と思っているほうがどんな事態にもすばやく対処できるわけだし、どことどこが好きと思っているということは、どことどこがイヤ、と思っているということでもあるから、男にとってはヒヤッとする。

男は全体として80点、みたいなとらえ方で、20点の減点はどこにあるかといってもあんまり根拠はなかったりする。だから女性に対する要求も「仕事をやめて家に入れ」とか割りとその人の全人格に関わるような要求を平気でしたりするわけだし、女性は「稼ぎを増やしてね」とか「靴下を脱ぎっぱなしにするのはやめて」という個々の事例を直すことを要求したりするわけだ。どちらも日々の生活の中でフォーカスを当てて考えていることではないからそういわれると考え込んでしまったりすることになりかねない。男と女の話は結局、なかなか通じないから尽きないんだなとしみじみする。

まだまだ『文藝』の穂村弘特集を読んで思ったことはたくさんあるのだが、とりあえずいったん停車する。今日は朝食後駐車場の草刈りをし、蕗を大量に収穫。午前中蔦屋と平安堂に出かけてに出かけて『ひまわりっ』の6巻7巻と『誰も寝てはならぬ』の11巻(本日発売)を買った。

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by Luke Peterson

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