柔らかな楷書

Posted at 09/03/12

早朝の気温は零下まで下がったが、春分も近づき、早い時間から明るくなっているので、鬱陶しさがない。むしろ空気の冷たさに身が引き締まる思いがする。春は光からやってくる。

昨日は仕事が午前中からあったが、合い間を見て花屋に行った。しかし、ほかの商店と同じく水曜定休だったので、コデマリを買うことができなかった。近くのスーパーによってバラとカスミソウの花束を買う。午後、合い間を見て生けてみた。

遊鬼―わが師わが友 (新潮文庫)
白洲 正子
新潮社

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白洲正子『遊鬼 ―わが師 わが友―』を読みながらフォルムの大切さについて考える。かたち(形、容)、型と言ってもいい。現代では、マニュアルと言う意味では形の重要性について意識しているが、その形の美しさというのはまったく蔑ろにされている。私自身、方にあまり意識を払ってこなかったし、したがってろくに敬意を払ってこなかった。むしろ型というものは不自由なものだと思い、敬遠してきた。型が大事なのではないかと思うようになってからも息を止めて自分を型に入れるようなやり方をやっていたのですぐに行き詰まった。

しかし本来、型というのは自分で作っていくものなのだ。だから自分を型にはめて行くのは不自由なようだが、その型のよさを一つ一つ理解して身につけていく過程でなければならない。だからもともと出来の悪い型であったら、身につけるのは難しいしむしろ害がある。こういうやり方をするのであれば、よくよく良い先達を選んでその指示に従わなければならないだろう。良い先達に恵まれる幸運に預かれた人は幸いだ。

でなければ方は自分で選んで突き詰めて獲得していかなければならない。古人の跡を真似ると言うやり方もあるが、芭蕉が「古人の跡を求めず、古人の求むるところを求めよ」というように、その型の向うに古人が目指したものを見据えつつ、型から入っても型を出でて、自分の新しい型を見出していかなければならない。

しかし古人の跡を真似ることで、古人の意図したこと、創作の際に古人が何を目指し、何を留意したのかが見えてくることもある。それが型を用いる上で最も幸せなことだ。

昔のものは形が良い、昔の人は形がいいというのは、昔の人はその型、そのフォルムを徹底して追求したからだ。今のものが形が崩れている、だらしないというのは、その徹底が足りないからだろう。良い形になるまで徹底したものにデフォルメを加えて変化をつけ、動きを生ませてはじめて本当の意味で面白いものが出来る。

私の体質から行っても、目指すべきフォルムはいわば楷書だなと思う。それも柔らかな楷書。流れと動きがあり、力のためと解放がある楷書のものを文章でも目指したいと思う。

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