眺めの良い駐車場/桃も桜も満開/楽な生き方

Posted at 09/02/06

昨日。昼食を済ませたあと、仕事の打ち合わせのために諏訪大社の近くまで行く。川沿いの土手に車をとめて、アトリエで打ち合わせ。アーチストと職人のさかいめみたいな人たちとの打ち合わせは面白い。行きと帰りと、途中のサークルKに立ち寄ったが、ひろびろとして周囲の山々がよく見え、眺めの良い気持ちのよい駐車場だった。思いがけないところにいい感じの場所がある。

直接職場に行くと、駐車場にどこか別の車がとめられていた。貸主の不動産屋に行ったら、不動産屋のスペースに仮に止めさせてくれた。30分くらいして様子を見に行ったら、今度は別の車が止められていた。そんなことは初めてだが、どういうことだろう。6時頃もう一度見に行ったらようやくいなくなっていたので、本来のスペースに置きなおす。そういうことをされると困ります。

仕事は10時過ぎまで。思ったより延びた。でもまあ最近仕事が充実していてよい。帰って夕食、テレビを見て入浴、就寝。このところずるずると遅くまでテレビを見てしまい、寝たのは1時半近くになっていた。

おかげで朝は少し寝過ごし、目が覚めたら外も明るく、時計は7時を回っていた。急いで自室のゴミを出しに行き、実家のゴミを捨てて職場のゴミを出しに行く。家に戻ってきたら7時40分になっていた。父に愉気、朝食。

ダ・ヴィンチ 2009年 03月号 [雑誌]

メディアファクトリー

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モーニングページを書き、9時45分くらいに出かけて蔦屋へ。10時前に着いてしまい、入り口の前でしばらく待つ。同じような人たちが何人か。田舎でも人のいるところにはいるんだよな。『ダヴィンチ』を買う。ほかの買い物はせずまっすぐ帰宅。10時15分。本一冊買うのに車で30分つぶれるというのはやはり田舎だよなあ。でも考えてみたら東京でも駅前の書店に自転車で往復しても30分はかかる。まあそんなもんか。

『ダヴィンチ』を読む。といってもじっくり読むのは山岸涼子「テレプシコーラ」だけなのだが。ローラ・チャンが須藤空美ではないかという疑惑が六花自身によって語られる。これは多分多くの読者が今まで感じていたところで、一気に本題に突入したという感じだ。ローザンヌコンクールもコンテンポラリーの審査が終わり、一気に佳境に入ってきた。来月もまた楽しみだ。

水あげ法が良くわかるフラワーアレンジメント (レディブティックシリーズ (1063))
青山 美治
ブティック社

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図書館で借りてあってそのままになっていた本を読む。青山美治『水あげ法が良くわかるフラワーアレンジメント』。フラワーアレンジメントの方法を読んでいたら何だか単純で笑ってしまったのだが、生け花のような奥深さはなくても自分が出来るわけではないから軽んじてはいけない。特にこの本、オアシスの使い方、水あげのさまざまな方法の具体的な詳しい解説、フラワーアレンジメントの基本パターン、よく使われる花材180の紹介とそのすべての水あげ法の解説が書いてあり、実は結構重宝しそうな本なのだ。ただ花を長持ちさせるために水に薬品を混ぜる方法を読んでいるとちょっと気持ち悪くなったりするところがあって、良くも悪くもフラワーアレンジメントのことが入門レベルでよくわかる本だと思った。

天気がよく、時間があるのでまた花の写真を撮ってみる。桃も桜も満開だ。また最近特に意識するようになってきたのだけど、木の花は枝の木肌も美しい。桜のつややかな枝、梅の枯れさびた味わい。桃の堂々とした幹の太さ。こういう魅力を感じ出すと盆栽方面に走るんだろうなと思った。

最近、思うところあっていろんなことがあるたびに感謝する習慣を身につけようとしているのだけど、そうしているうちに自分の中で変化が起こっていることに気がついた。

何かうまく行ったときも、それを誇らしく嬉しく思うよりも、まずうまく行ったことに感謝するようにしているわけなんだけど、その方が自分の気持ちがすがすがしいということに気がついた。誇らしく思う気持ちというのは気持ちはいいのだけど、どこか濁っている、ある種の自分の中にある地獄の釜の蓋を開けるようなところがある。でもそれが快感で今までずっとそういうのを味わっていたわけなんだけど、でもそういうことによってその地獄から抜け出せなかったような気がする。プライド地獄というか、誇り地獄というか。ふと気がついてみるとそうだった自分に気がついてびっくりした、みたいな感じだ。

今までうまく行ったことに対して自分の功を誇らず、謙虚にまわりに感謝するような発言をする人を見て、何故そう振舞っているのか理解できず、嬉しく誇らしく思うことを抑圧しているのではないかと思っていたのだけど、そうではなくて誇らしく思うこと自体が苦しく重荷に近いことになっているんだということがわかってきた。そういう気持ちを持つよりそれを実現させた周りの条件とか人や物に感謝した方が楽だしほっとするしずっと気持ちがいいのだ。

だから以前は謙虚な人を見ると禁欲的だと感心したり(誇ったりすることが、もちろんほとんどの場合は内心のことなんだけど、本当に嬉しくてぎらぎらとそれを追い求めていたんだなと今にして思うが)、あるいは偽善的にカッコウつけていると反発していたのだけど、実際にはその方が楽だし気持ちいいからそうやっているに過ぎない、ごく自然なことだということがわかってきた。無理してそうしているのではなく、無理しないからそうなるということなのだ。そう振舞っていると物事の自然の流れに自然に乗っていくようになるし、物事がスムースに進んでいく。そうなっているとその流れが見えるようになって、自分がどうしたらいいのかがわかりやすくなってくる。

こうしたことはなってみないとわからないのだが、なるべく早く気がついた方が得なんだなと思った。若くて血気盛んな頃には気がつきにくいことだし、私のように無駄にプライドが高いタイプだと気がつくのが相当難しいことではあるのだけど。

椿づくし

講談社

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『椿づくし』を読む。最初のほうは、茶席の椿。古美術商の物言いとかがやや鼻につくが、椿という存在を通して茶席のしつらえを知るということを気持ちのよいものだと思った。暮らしの中で椿を楽しむ、というページでは伊賀・丸柱の陶芸家福森雅武が自作の伊賀灰釉の大壷に生けた藪椿の大枝が圧巻。これだけ広い床の間があるといいな。

風姿花伝 (日本の古典をよむ)

小学館

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『風姿花伝』。私は芝居をやっていたことがあるので、この本は俳優の立場から読むことが多い。第三問答条条の冒頭で客席の状況を見て演じ方を考えて工夫することが述べられていて、これはすごく面白かった。実際、客の入りの悪いときはのりを良くしようとふんばることが多いし、客がよく入ると微妙な演技に客席が良く反応するので細かい工夫をその場でしたりする。舞台芸術というのは一過性のものなのでそのときそのときで工夫してベストを尽くすわけなのだが、お能でもそうだとはあまり思っていなかった。伝統芸能とか商業演劇とかはいつも同じように演じるもの、という印象が強く、客席の様子によって演技が左右される、あるいは工夫するという考えがあるとは思っていなかったのだ。現代の能楽師もそういう工夫をしているのか、それは世阿弥の時代の歴史的なことなのか、ということを思った。

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by Luke Peterson

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