『日本に古代はあったのか』:「東大系の歴史」と「京大系の歴史」

Posted at 08/07/23

昨日。10時過ぎに家を出、丸の内丸善で本を物色。結局、前日に面白そうだと思った二冊、井上章一『日本に古代はあったのか』(角川選書、2008)と井上寿一『昭和史の逆説』(新潮新書、2008)の両方を購入。今『日本に古代はあったのか』の方を主に読み、233/307ページ。なかなか刺激的な作品だ。詳しくは後述。新宿で特急に乗る。特急の中は冷房が効いていたが、南側の窓際に座ったので汗ばむほど。しかし冷房病を完全に逃れているとはいえない。郷里に到着後、午後から夜にかけて仕事。直射日光は、東京よりも信州の方が暑いくらいだ。朝夕はもちろん、東京の方が蒸し暑いのだが。さすがに冷房の必要を感じ、今年初めて早い時間から冷房を入れる。冷房嫌いの私としては嫌なのだがしかたないだろう。

昭和史の逆説 (新潮新書 (271))
井上 寿一
新潮社

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夜はプロフェッショナルを見ながら夕食を取り、入浴、就寝。『美味しんぼ』の東京の家にない巻を確かめたら全部あった。全巻ちゃんとあることが確認され、一件落着。

朝は5時半起床。モーニングページを書き、少し整体体操と活元運動をしてから散歩に出る。ファミリーマートでスーパージャンプの新しい号を買う。いつものコースを歩いて帰る。朝の光は美しい。悲しいほど。美しいとなぜ悲しいのかとか考えながら歩いたり。
人はなぜ生きるのか、なぜ戦うのか、なぜ考えるのか。戦わずにはいられないから戦い、考えずにはいられないから考える。それがどこに人を導くのかはわからなくても。だからそれは盲目的な意志であり、無明であるともいえる。それをよりよい方向に向くようにするのがイメージの力だけれども、それをうまくつかえないことが多い。どうしたらよりよくイメージの力をつかえるのか。そんなことを考えながら。

日本に古代はあったのか (角川選書 (426))
井上 章一
角川学芸出版

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井上章一『日本に古代はあったのか』。現在普通用いられている歴史学上の概念としては、平安時代の貴族中心社会までを古代、鎌倉・室町・安土桃山を中世、江戸を近世、明治以降を近代とするのが一般的である。最近は院政期以降を中世に、戦国・安土桃山を近世に入れる傾向も現れてきたが、大きな枠組みとしてはそう変わっていない。ところで、世界史的にみると西洋史の枠組みでは5世紀の西ローマ帝国滅亡までを古代、15世紀ごろまでを中世、それ以降を近代とする枠組みがあり、また東洋史では漢代までを古代、唐代までを中世、五代十国以降を近世、アヘン戦争以降を近代とする枠組みがある。それに比べると、院政期としても11世紀までを古代とするのは遅すぎるのではないか、というのが著者の問題提起であり、アジア自然体の中に日本史を位置付けるとしたら無理に古代を設定するよりもドイツ史が中世から始まるように(古代はローマと対抗したゲルマン人の時代なのでまだ歴史時代に入っていないと考える)中世から始まると考えたらどうかという提案である。

ところで、東洋史において漢代までを古代、唐代までを中世とするのは京大系の東洋史学の学統である。東大系の学統では唐代までを古代、宋代からを中世とする。何気ないようであるがこれは戦後史学の上で深刻な対立があり、現在でも東大・京大以外の東洋史学者は就職先がはっきりするまで「唐が古代か中世か」という問題にはタッチしないようにしているのだそうだ。それに触れると必然的に学閥の対立に巻き込まれるからだ。そのことについては私も歴史学会の端くれに位置したこともあるのに寡聞にして知らなかった。西洋史学にとっては関係ないといえば関係ない話でもある。史学会に出ていても、西洋史学者の問題意識と東洋史・日本史の学者の問題意識は全然違うなと呆れたことがあったが、西洋史はある種の治外法権なのかもしれない。

著者は、中国史において唐まで古代とするのは、日本史において律令制を古代国家の完成形と見るために日本史に中国史をあわせ、また中国がヨーロッパより遅れているというアジアを軽んじる脱亜入欧史観の現れだとする。特に東大はヨーロッパからの学問輸入の最先端であるから、自然とそれが現れているとする。

またそれだけでなく、日本史においても鎌倉から中世、江戸から近世という具合に関東地方の政権成立から「新しい時代」がはじまると考えるのは、畿内や京都の政権を否定しようとする「関東史観」であり、東京に遷都した明治政権にとって都合のよい東京中心史観の現れだと主張するわけだ。京都は魔都であり質実な鎌倉・江戸の政権によって時代が清新にされたと主張するためだ、というわけである。

この主張は私が読んでもそれなりに納得できるところがある。著者は京大工学部を出た文化史学者で、やや「京都史観」に偏しているという気もしなくはないが、昨今の時代区分の見直し、特に平安期から中世、応仁の乱以降を近世とする時代区分が京大系の学者によって提唱され、東大系も渋々それに追随しつつあるという状況は私の知る限り正しい。

とは言っても、この問題のどセンターにいる東洋史学者や日本史学者であれば、ここまで思い切ったことはかけなかっただろう。また在野の学者や作家が発言したところで無視されるのが関の山だ。この著者の主張も歴史学の場で取り上げられることはまず期待できないが、文化史学者であるという点で一定の影響力を持ちえる可能性もある。このあたり、実際に面倒くさい世界なのだ。西洋史でも、フランス革命史など門外漢の学者や作家、民間人が取り上げることも多いが、まずほぼ無視される。塩野七生のように無視できない影響力を持つとかなり陰湿な足を引っ張るような発言がなされることもある。私は基本的にそういうのは馬鹿げていると思うし、ヨーロッパなどでは対等に議論がなされることが多いけれども日本では学者の世界というのは基本的に閉鎖的なムラなので、議論の枠組みの一つにその分野の学者であるかどうかという入場券のようなものが必要になっているから、素人衆が手を出すと火傷する世界になているわけである。

「パール判決書」をめぐる中島岳志と小林よしのりの対立も基本的にそういうものを感じる。学会の権威がみな中島についているのは、中島がムラの中の人間だからという面もないとはいえまい。小林についたところで得をするものは誰もいない。昔大月隆寛が小林について戦う姿勢を見せたことがあったが、結局小林から離れていった。あれは個人的なパーソナリティの問題というより学者ムラの仁義の問題という側面の方が強かったのだと思う。

今まで読んだ範囲ではこの本は基本的に京大系の歴史への応援歌という感が強いが、古代史はないと定義することでアジア史の一環として日本史を組み込もうという姿勢、ある意味中国文明中心史観に一つの軸足があるようにも感じる。まあいろいろな意味から面倒くさい話なのだ歴史問題というのは。歴史問題というのは南京事件や竹島問題だけではないのだ。

しかし、昨今「聖徳太子はいなかった」論が急にもてはやされ、強引に「いなかった」ことにされつつある情勢があるが、歴史の世界では昔からそういう強引な牽強付会がかなりある。特にマルクス主義史観に従って班田農民を「広義の奴隷」と位置付けようとしたりしている点は噴飯ものだ。唯物史観に従えば古代社会は奴隷制社会なので、奴隷の使用が農業経営を支えていなければならない。しかし奴婢の人口はわずかなので、班田農民を無理やり奴隷に位置付けなければならない。律令社会が古代であるということを主張するために無理な操作をかなりしている。歴史学の組み立てというのもあとからみると結構無駄なことが多かったりするのだ。しかしそれが無視できない影響力を持ってしまうのだ。

まあ「聖徳太子はいなかった」説が急に台頭してきたのが学問の衰退、歴史学の衰退の一つの表れなのではないかという危機感を実は私は持っていたのだけど、昔からそういうことはよくあったと考えればまああまり気にすることもないのかもしれない。こういうことを書くと自然科学の分野からはだから歴史なんていうものは科学という名に値しないのだということになるが、まあ生物学なんかはそういう面が結構あったりするし、歴史学もそれほどでもないと思う。というか、一般の認識として学問というものもそういうしがらみとかで不透明な部分が出てくるものだよ、ということをある程度知っておいた方が便利かなという気はする。

しかし実際のところ、日本史に古代はあったのか、なかったのか。唯物史観の奴隷制・農奴制・資本制という軸をあまり重視しないとすれば、古代的な統一文明、中世的な社会の分裂、近世的な統一、というのが一つの評価基準になると考えればいいかもしれない。つまり問題は、律令制から王朝国家にかけての時代、つまり飛鳥時代から平安中期までの国家的統一をどの程度評価するかという問題だろう。これを一時的な現象(たとえば中国における晋、ヨーロッパにおけるカール大帝の統一)と見ればこの時代を中世と見ることが可能だし、これを本質的な古代文明と見れば古代と評価するしかない。著者はつまりは非統一的な状態がずっと続き、律令制期も王朝期も基本的には分裂時代(たとえば神聖ローマ帝国のようなものか)なのだ、と主張したいのではないかと思われる。このあたり最後まで読んでないので言い切ることは出来ないのだが。

この問題はつまり、律令国家と王朝国家をどう評価するかという問題になり、それはつまり「天皇」という存在をどう評価するかという問題にもつながる。つまりかなり価値判断が絡んでくるので日本人にとってはおいそれと評価できる問題ではない。つまり、左翼ムラに属するのか保守ムラに属するのかという面倒な問題に巻き込まれるからだ。

そうした問題を抜きにして考えても、今のところ奈良朝・平安朝における中央集権の度合いというものをどの程度のものとして評価すべきなのかはやっぱり難しいなと思う。あまり具体的なイメージが出来ない。

また古代の有無をその文明がどれだけ世界性・普遍性を持ったかということで評価するということもありえる。漢代の文化は確かに東アジア世界全体に長年にわたる大きな影響を及ぼしたという点でギリシャ・ローマに匹敵するとは言えよう。唐代の文化はよく国際的というが、漢代のものほど強力な影響力を持ちえたかどうかというと難しい。

日本の古代文明は律令制という意味では唐代の文化の影響下ということになるし、国風文化ということになると独自性が強く普遍性というには逆行することになる。万葉・古今・源氏を同時代的な世界文化ということは難しい。しかし東アジア世界ではなく西太平洋世界と考えると琉球の文化は日本の影響を受けていることは確かなのである程度の普遍性を計算しうるかもしれない。このへんは、中国文明と日本文明を独立したものと考えるか、東アジア文明としてくくるべきかという問題にもなる。これは日中関係を含めかなり政治的な要素が強い。特にチベットを独自の文明と見るかどうか(私は当然独自の文明だと思う)はきな臭さを孕んでいよう。

著者はまあ日本を中国文明に隷属した関係という面を強く見ているわけで、日本史の伝統は日本文明の独立性という面を強く見ているというふうにもいえる。ヨーロッパ文明の規模に比べれば、日本の畿内と関東をローマとゲルマンの関係にみるのは縮尺が狂いすぎていると著者はいうが、まあその指摘は指摘としてある程度の新鮮さがあるけれども、なかなか難しいな。

これは東大史観ではないが、「関東の独自性」「奥州の独自性」というものをどう評価するか、という問題とも絡んでくる。「畿内の文明」が中国かぶれしていて、関東の文化こそが真の日本文化だ、というポジションもありえる。『いきの構造』の解説などを読んでいたらそういう見方が示されていた。それはそれで納得できる面もあるのだ。

さあて混乱してきた。日本のことを知るには歴史を知れ、という言い方があるが、歴史をどう見るかというのは結局日本をどう見るかという問題になり、それは純粋に「歴史学」の範疇で決定されるものではない。結局、日本をこういうふうに見たければこういう歴史を読め、ああいうふうに見たければああいう歴史を読め、ということでマッチポンプになってしまう。結局、いろんな歴史を読んでいろんな意見を知り、自分が正しいと思うものを選択するしかないという読んだだけ損したみたいな結論になるのだが、しかしまあそれがメディアリテラシーと言うものだし、致し方なかろう。今後も論争的に考えていくしかないのだろうと思う。

ちなみに、東大系の歴史と京大系の歴史という点で言えば、教科書行政において影響力が強いのは東大系である。だから大学に入って授業を受けたり、学者の書く啓蒙書を読んで非常に新鮮なイメージを受けるのは京大系の歴史なのだ。歴史というのは暗記物という印象が強いが実はものすごく人間くさいものであり、またそれを書く歴史学者というのも実に人間くさいものだということは面白いことかもしれない。良い悪いは別にして。

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