秩序と混沌、コスモスとカオス

Posted at 08/07/19

昨日。午前中に歯医者に行く。少し前に奥歯が欠けて、しばらく忙しさに紛れて行かなかったのだが、ちょっと問題を感じたので。行ってみると、思ったより虫歯が深くなっていて、ちょっと治療に手間がかかりそうとのこと。歯槽膿漏もやや進んでいるとのことで、歯は自分なりに磨いているつもりだったがやはり甘くなっていたのだなと反省。

午後から夜にかけて仕事。あまり忙しくなく。事務的な仕事や準備などを進めるが、定時に上がれた。忙しくて、しかも定時に上がれる、というのが理想だが、なかなかそうも行かない。

今朝は早めに起きて散歩に出かけようと思っていたのだが、起床はやはり6時半くらいになってしまい、散歩にはいけなかった。モーニングページを書き、少し活元運動をして、父に愉気、朝食。食後に散歩に出る。もうだいぶ暑くなっていて、日陰を歩きたい感じ。久しぶりに写真を撮る。郊外型鮮魚量販店の向かいのローソンまで行き、水を買おうとしたら財布を持っていないことに気がついた。恥ずかしい。帰ってきてつらつらといろいろものを考える。まあそのざっとした内容。

人間の本性について性善説と性悪説があるように、世界や自然、宇宙というものについても本来の姿が秩序あるものであるという考え方と本来の姿が混沌であるという考え方があるといえるのではないかと思った。前者をコスモス(秩序)説、後者をカオス(混沌)説ということができるのではないかと。

人間の体など生命体においてはホメオスタシス(恒常性維持機能)があることが知られているし、自由主義経済においてはたとえばビルトインスタビライザーであるとか「神の見えざる手」のような「秩序」が想定されている。「私」を取り巻く世界、自然、宇宙というものに秩序があるのかどうか。あるいは混沌なのかどうか。

もちろん性悪説や性善説を絶対化して考えると特に教育において不都合が生じるし、また経済においても市場の自律性に任せすぎて経済全体を損なってしまったり、逆に介入しすぎて歪な状態になったりするように、どちらかの考えですべてがコントロールできるわけではない。

また人によっては美しい秩序を愛する人もあれば、エネルギーに満ちた混沌を愛する人もあり、好みによってその判断が左右されることもあるだろう。

最近私は考えていて、私はやはり美しい秩序というものを愛する方だなあと思う。整いすぎているとつまらないから多少は引っ掻き回す存在がいるといいなと思うけれども、若い頃はすべて秩序に満ちていると思っていた世界が実は相当壊れていて、かなり混沌に浸食されているということに気づいたあたりから、あまりそういう引っ掻き回すものを待望する心性はなくなってきたなあと思う。

考えてみると、秩序を構築することは、秩序を引っ掻き回すのに比べて比較にならないほど巨大な力を必要とするのだ。それは権力だけでなく、人間的な力であったり、知恵であったり、感情的なコントロール能力であったり、人を育てる力であったり、さまざまなものが要求される。秩序を維持するのに必要な力は構築するのに必要な力ほどではないが、そう小さいものではない。

世界を形作っていくには、人間が有限の生命を持つものである以上、教育が重大な位置をしめる。教育とは本来一人一人の子どもの個性を無理なく引き出していくべきものだとは思うが、どのようにも染まる子どももまたたくさんいる。そういう子どもたちが世界を維持するほうのポジションにより多く行くように育てるのか、世界を革新し、あるいは撹乱し、世界を更新するほうのポジションにより多く行くように育てるのか、という問題はあると思う。現代の教育は個性偏重の嫌いが強いので、少し世界を撹乱する方向に育ててしまっているベクトルがより強いのではないかという気がする。子供たちの中で一定の人々がそういう方向に行かなければ世界の発展はないけれども、多すぎると無秩序になるということもいえる。逆に、世界を維持する方向の子供たちばかりになると、新しいものを受け入れていく余裕のない息苦しい社会になってしまう可能性もある。

そういう濃淡は、田舎と都会、地域や階層によってもかなりばらつきがあるのが実情だろう。また個人の感受性によって感じ方もかなり違うだろう。現在のこの社会を息苦しいと感じる人もいるだろうし、私のようにもっと秩序ある社会であって欲しいと思う人もあろう。また社会の場面・局面によってこの当たりはもっと秩序を、このあたりはもっと自由を、ということもあるかもしれない。

今考えると、子どもの頃、自分の回りの世界はもっと光に満ちていたし、美しい秩序に満たされていたという気がする。今の世界が色褪せて感じているのは、自分が個人的に世界に失望した側面が大きいのだとは思うが、それだけでもないだろうという気がする。

しかし、やはり自分自身が世界の秩序を信じられなくなって、この世界を混沌や闇が支配している、あるいはしつつあるというような感覚が十数年前から強くなっていて、世界を信頼できない、宇宙は愛に満ちていない、という風に感じてしまっているということに最近気がつき、それは問題だと思うようになったのだ。

それは世界の嫌な側面ばかりをしばらくの間見続けたために、世界が信じられなくなって、世界をきちんと一つ一つ見られなくなっていたというのが、つまり視線が萎縮してしまっていたということに、今まで気がつかなかったわけではないが、そのためにまともに世界が見られなくなっていたということがだんだんはっきりと認識されてきたということなのかもしれない。

多分それは、世界認識においてある種の病だったのだろう。それから完全に脱せられたかというとよく分らない。逆に、子どもの頃がユーフォリアの状態だったという見方もありえるわけだが、それにしてももっと明るいものとして世界を見られる状態に自分があることを望む気持ちは強くあるのだ。世界が荒々しい側面を持つのは承知の上で、もっと世界を信頼できるようになりたい、ということだろうか。秩序を引っ掻き回す存在の面白さを味わう余裕は、秩序への信頼感があって初めて味わえるものであろう。

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by Luke Peterson

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