海軍の突出した国際性/自堕落で繊細な時代

Posted at 08/07/12

昨日。操法を受けた日はいつでもそうだが、何だか気だるい感じになる。それは体が緩んでいるからで、よいことなのだが、仕事中にだるくて仕方ないのはそれはそれで困ることでもある。仕事はまあまあ、まあしかし暇な部類か。夕食、入浴とどうもけだるくてのろのろと。朝起きるのも6時を過ぎていた。トイレに行ってみたら、玄関が鍵がかけてなく、しかも戸が少し開いていた。それに気がつかないとは、相当疲れが出ていたに違いない。今朝も何だかかったるい状態は続き、朝食後もいろいろやる気は出ず。モーニングページを書いたり、頭の中でいろいろ考えはするのだが、いいアイディアだと思ったことも記さないうちにどこかに行ってしまったりして、取り留めのない緩んだ感じが続いている。

鈴木貫太郎自伝 (1968年)
鈴木 貫太郎
時事通信社

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『鈴木貫太郎自伝』現在206/342ページ。本人は嫌いなようだが、大隈内閣で海軍次官を務めたときの話が面白かった。歴史の中でどういう仕事をしたのか、やはり政治の中の話が自分にはわかり易い。水雷戦術については相当研究していて専門家なのだが、そういう話はどうもこちらにわかりにくくて困る。練習艦隊で兵学校生徒の教育にあたる話などは面白い。当時の生徒の中には山本五十六もいた。

また練習艦隊が諸国を回り、オーストラリアやインドネシア、シンガポール、またアメリカやメキシコ、ハワイなどを回って各地で歓迎を受けたり現地の士官たちと交流しているのを読んでいると、やはり海軍軍人というのはその当時にあっては隔絶した国際経験をもつことになるんだなあということが実感としてよく分ったので、そうした国際感覚というものが戦前でも特異な位置をしめたということが良く理解できる。外務官僚や商社の担当者でも特定の国のことを知ることはできるだろうが、海軍軍人は自分の船で次々にいろいろな国を訪問することができるわけだから、戦前において最大の国際派は海軍だったのだと思う。そういう認識はやはり政治の局面でも重要であるように思う。

シーメンス事件で罷免された松本和中将が、海軍大臣を目指していて、政界で活躍するためには資金が必要だが、陸軍に比べて機密費が少ないので、それを用意するために賄賂をとったのだと言い訳をしていて、まあでもそういうことはあるんだろうなとは思った。海軍は当時八八艦隊や多くの艦隊整備の目標を持っていて、また日独戦争(第一次世界大戦)で駆逐艦を必要とするとか、陸軍や政治局面だけでは理解しにくい海軍独自の世界情勢への対応の必要性というものについて、この本を読むことはかなり理解に資したと思う。歴史を理解するためには、やはり多方面からあたることが必要だと改めて思った。

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谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
思潮社

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『谷川俊太郎詩集』現在224/775ページ。詩集で言えば『二十億光年の孤独』を読み終わり、『62のソネット』の22番を読み終わったところ。『二十億光年の孤独』は断片的にしか読んだことがなかったが、改めて読んでみると宮沢賢治の影響がものすごく強い。彼の父の谷川徹三はいわば宮沢賢治の発見者であるからその影響が強いのも理解は可能なんだが。『62のソネット』は哲学的、倫理的な傾向が強く、写実性というか現代性というものにおいて当時の詩壇から見れば非現代詩であると見なされたんだろうなあと思う。

しかし、人々は本当はそういう詩をこそ必要としているのではないだろうか。現代の詩壇も、『現代詩手帖』に代表される前衛的な詩作品と、銀色夏生やら相田みつをやらのきわめて大衆的な路線、あるいは音楽の歌詞といった方向に乖離した状態が続いているように思う。本当に必要とされる詩と言うものは、そうした前衛と大衆の間にあるように私には思えるのだが、そういう路線を支える社会的な基盤、つまり詩誌というものがない。そこに現代の詩壇の閉塞性があるという気がする。きわめて小部数の、中途半端なものが存在しにくい世界ではある。現代詩手帖に毎月投稿作品が数百も集まるのに、詩誌はわずかしかないし、その経営ももちろん順調とはいえないだろう。出版の大資本にとっては美味しいところではないのはたしかだが、何かできないかという気がする。

現代詩手帖 2008年 07月号 [雑誌]

思潮社

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『現代詩手帖』を読んでいると、若手の本当に前衛的な、言葉の技巧のかなり卓越した人もあれば、一方で自堕落で繊細な若者の心情というものをうまく掬い上げている作品も多く見受けられる。今とは形態は違うが、やはり20年前の自分も自堕落で繊細ではあった。しかし、その局面が当時よりずっと深まっている気がする。そして純粋性というか、まっすぐ性というか、ちょっと危ない優等生性というか、そういうものはわれわれの時代よりももっと強まっている感じがして、その辺が危なっかしい。そのあたりすべてひっくるめて、現代の若手の作品というのは読んでいてかなり疲れる。どうしてそうなんだろうと思いながら他の作品を読んでいると、そうした作品群とはかなり深い断絶の向うに、戦後詩の流れを汲む年配の人々の作品があり、そこにはまたほっと一息のつける作品もまた存在する。つまり、そこには若手の作品にはない『人生』が存在するのだ。若手に『人生』を求めるのは木によって魚を求めるようなものではあるが、やはり自分もこの年になると、人生を感じさせない作品は読んでいてつまらないというか、味わいを感じなくなっている。正直言って、詩手帖の新人欄も十代の作品ばかりが乱舞するようでは少し危険ではないか。芥川賞で『蹴りたい背中』や『蛇にピアス』が受賞した頃の作家のアイドル化の傾向が、詩壇にも及んでいるのは確かで、そのあたりに危惧を感じる。才能の優れた詩人が出てくることに異論はないにしても、アイドル的な才能のみが取り上げられることで狭い詩壇がもっと狭くなる危険性もまたあるように思う。

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