萩原朔太郎/生理的な詩人/不安と鬱を解消するためには

Posted at 08/05/27

このところ何もかも押せ押せになっているので、今日は何でも早めにやってしまおうと思い、ブログも更新。と言っても、今日は起床が4時半だったので何をやるにも余裕があるのだ。今日の日の出の時刻は4時29分。朝、目が覚めて外に出てみたらとても気持ちのよい空気。モーニングページを書いて、ふと見るとスライド書棚のガラスに朝日が当たっている。今は西向きなので、西側のマンションの窓に反射して、それが書棚に反射しているのだ。また通路に出て北側に歩く。今はだいぶ北の方から朝日が出ている。朝日が見えた。少しだけ御来光の行をやってみる。かなり久しぶりだが。

昨日は夕方出かけて、物を考えながら丸の内の丸善に出かける。三好達治の書いている萩原朔太郎論が欲しくなったからだ。そのほかにも物色し、結局三好達治『萩原朔太郎』(講談社文芸文庫、2006)、河上徹太郎編『萩原朔太郎詩集』(新潮文庫、1950)、ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』(ちくま学芸文庫、1997)を購入。そのほか、4階の文房具売り場でライフのA6のカバーつきの手帳と、インドフェアをやっていたので薔薇のお香を一箱買った。

萩原朔太郎 (講談社文芸文庫)
三好 達治
講談社

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三好達治『萩原朔太郎』。『文芸読本』をちらっと見た感じでは、どうも朔太郎の作品そのものに即した批評が掲載されているわけではないらしいと感じたので、その作品の内側から迫りうる評者は誰か、ということで三好達治のものを読むことにした。三好も、西脇順三郎と並んで朔太郎を師と考えている。文芸読本の主調音と同じように、三好も朔太郎の晩年の日本主義的な言説を取り上げることから始めている。もちろん、文芸読本の方が批判的・攻撃的な色彩が濃く、三好は弁護的・擁護的である。しかし、言説の内容自体はほぼ完全に否定していると言っていい。そのあたりは戦後の言論空間のソフトな全体主義の空気が漂っているとはいえる。

三好の書を離れるが、私は朔太郎のそうした言説は、思想的とか確信的なものというよりは、もっと生理的なものだと思う。初期の『月に吠える』や『青猫』も、朔太郎という稀有な詩人の生理から生まれたものだから、あれだけ斬新で官能的で言葉に体温がある異様な詩句が生まれたのだ。そして一貫して朔太郎は、自分の生理にしたがって書いたのだと思う。勇ましい言説と言うよりはある種の八つ当たりのようなものだと三好は言うが、私もそんな物だろうと思う。私もときどきそういう言説を書いてしまうので似たことをしているなと反省したりもする。

だから別に朔太郎は、象徴主義者・モダニストから国粋主義者に変化したわけではない。朔太郎はいつも、自分の生理に従って書いただけなのだ。多分、政治的な思惑というにはあまりに素朴で不用意な言説に過ぎないのだと思う。それを持って朔太郎を罰しようというのは、この詩人の本質の理解を損ねることになると思う。

「夜汽車」「こころ」といった詩の調べは美しく、言葉の使い方も驚かされるものがある。三好達治の地の文から自然に朔太郎の詩へつながる文章構成は、さすが詩人だと思う。芝居を見ながら、登場人物が劇中歌を歌ったり、オペラで台詞からアリアに移るような自然さと華やかさで、文と詩を上手くコラボレートさせ、それでいて言いたいことが伝わると言う、これもまた三好達治の優れた力を見せ付けてくれる作品だと思いながら読んでいる。18/309ページ。

萩原朔太郎詩集 (新潮文庫)
河上 徹太郎,萩原 朔太郎
新潮社

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河上徹太郎編『萩原朔太郎詩集』。他にも詩集はあったが、河上の解説が半ば目当てで新潮文庫版にした。やはり河上もまた朔太郎の「国粋主義」を取り上げているが、河上はそれを「自然主義批判」ととらえているようだ。まだちゃんと読んでないのでようだ、としたいえないが、そのあたりはきちんと読んでおきたい。

イロニーの精神 (ちくま学芸文庫)
久米 博,ウラディミール・ジャンケレヴィッチ
筑摩書房

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ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』。ぱらぱらと見た限りでは面白そう。西脇順三郎の言うイロニーというものの考察を、少し深めておきたいと思って買ってみた。西脇よりもずっと論理的に書いてある感じで読みやすそうだ。

ライフのA6のカバーつきノートは、「100円ノート式」をやってみようと思っているのだがどうもカバーがないと不安だなあと思ったのでいいカバーがないか探しているうちに行き当たった物。だから、ノートははずして100円ノートを差し込んで使う予定。使い勝手はこれからおいおい試していく。

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上にも書いたが、私が朔太郎の詩に魅かれる根本的なところには、朔太郎が生理的なものをしにしているところにあると思った。それを確認してみると、私もそういうものが書きたいと思う。表現として成立するかどうか難しいところもあるが、試して行ってみたい。そんなことを今朝散歩に出て、朝日を浴びながら歩いて考えていた。

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もう一つ、昨日考えたこと。自分がひとつのことが長続きしないのは二つ原因があると。一つは、無理なことをしようとしているとき。自分のやりたいことよりも世の中で必要とされると自分が思ったことをやることで、自分の中で無理が生じ、続かなくなってしまうと言うのがひとつの原因。もう一つは、やりたいことをやってはいるのだが、このままでいいのだろうかという不安が強くなり、やめてしまうこと。自分の中の必然はフォローしていても、世の中のことが見えていないという感覚が強くなってきて不安が募り、やりたいことよりも少し無理なことに鞍替えしてしまうということがときどきある。不安と無理との狭間で続けたりやめたりしていると言うのがとても大きかったのだなと思った。

結局仕事というのは、自分の必然を世の中の必要に結びつけることによって、自分も息が出来、生活もでき世の中にも役に立つこともできる、というものなのだなと思う。必要から発して必然に達しても、必然から発して必要に達してもいいのだが、その間に通路がつけられないと、どこかで壊れてしまう。無理が続くと鬱になるし、不安が続くのも精神によくない。歯車を上手く回転させるように工夫することによってしか、不安も抑鬱も解消しないということだろう。そんなことを昨日考えていた。これはたぶん大事なことなのだと思う。

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