東村山の銀河鉄道/言葉と説明/「話せば分かる」世界
Posted at 08/04/08 PermaLink» Comment(0)» Trackback(0)»
東京の東村山市に、「銀河鉄道」というバス会社がある、ということを知った。しかしこのバス会社、実は酒屋の1人息子が夢だけで作った会社なのだという。しかしすごいのは、貸し切りバス事業だけなら想像の範囲内だったけど、何と路線バス事業の免許まで取得して小平市内の駅から東村山市内の学校や東村山市内の循環バスまで運行するようになったのだという。アサヒコムのこの記事で知った。
驚いた人は多かったらしく、朝方はてなでブックマークしたときは6人ほどだったが、先ほど見たら29人に増えていた。そうだよなあ。バスや鉄道が好きな人はいくらでもあるが、それが昂じて路線バスまで自分で経営するようになるなんてちょっと普通では考えられない。この個人としては途方もない夢に邁進する山本さんを応援したいが、まずは無事故で地域に根付いていって欲しいと思う。
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私は文章を書くとき、説明を書くのがあまり好きではないのだが、なぜそうなのだろうと考えてみて、それはもともと私が芝居の戯曲を書くことからはじめたからだということに思い当たった。芝居で一番嫌われるのが説明的な台詞なのだ。これはマンガなどでも同じだが、肉体、あるいは絵がそこにある芸術では、あえて説明を省いたほうがリアリティがあるわけで、自分の心情をくどくど説明する台詞などを聞いているといらいらしてきてしまう。つまり、そんなこと言葉で言うのでなく、演技で表現しろよ、と言いたくなってしまうのだ。あるいは、演出や舞台設定や照明効果や音楽や、心情を説明する手段はいくらでもある。なのにそれを言葉に頼ろうとすることは、舞台にとっては一番野暮だ、という考えが染み付いているのだ、ということに気がついた。
戯曲の次に書くようになったのは詩だが、詩もまた行間をいかに読ますかが問題で、説明を詳しく書くことはあまり感心することではない。生の言葉でなく象徴的な言い方をするとか、比喩や間接的な言い方、あるいはすべてのことに触れてもそれにだけ触れないことによって、つまり不在によって存在感を表出する、なんてことをやったりする。だから説明を書くことは好きでない、というメンタリティが出来上がったのだと思った。
しかし、小説や論説、説明文などを書くときは、言葉のみによってすべてを表現しなければならないから、説明は書かなければならないのだ。極端に言えば、説明以外のことは書かなくてもいいのだ。
詩や戯曲の言葉は、基本的に「真実」を表現している、と考えていい。しかし、小説や日常的な言語においては、むしろ言葉は「真実を固定し得ないもの」として扱われる。いずれ真実でないならば、真実に迫るための道具に過ぎないわけだし、であるからにはすべての言葉は説明に過ぎず、説明以上のことは書こうとしなくてもいいということになるのだと思う。
これは絶対から相対へ、あるいは実体論から唯名論への変化とも言うべきものに対応するだろう。実体論はいわば原理主義で、コーランが天国に刻まれた神の言葉であるとするイスラム教の根本思想と一致する。キリスト教原理主義も基本的に同じことだ。しかし、言葉は真実を暗示するものではあるが真実そのものではない、とする唯名論的な立場に立てば、言葉にこだわることはそんなに意味があることではなくなる。現在の先進国とイスラム諸国との対立の背景にはそんなこともまたあるのではないかという気がする。
チベットと中国の対立もまた同じ問題が隠されているだろう。チベット人にとって、ダライラマの存在は「生きる真実の言葉」であり、ブッダの化身(正確には観音菩薩の化身)そのものであるから、代わりはありえない。しかしそうした実体論を持たない中国はそれが理解できないのではないかという気がする。なんだか話がずれた。
つまり言いたいことは、詩や戯曲を書くときと、小説や論文を書くときとは言葉に対する態度を変えなければいけないということだ。
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誰がどこでいったのか分からなくなってしまったのだが、文学においては政治的な対立が案外起こらない、ということがあると思う。石原慎太郎と田中康夫や瀬戸内寂聴でも、政治信条としては相容れなくても案外認め合ったりしてしまうところが文学にはある。それは書くという現場を共有しているということもあるし、職業的な連帯感もまたあるのではないかという気がする。近年それがあまりないのがフェミニスト系の笙野頼子や佐藤亜紀なのだが、彼女らもいわば芸としてそういうことをやってはいるのだけど、本当のところはそんなに頑張らなくてもいいのにな、という気が私にはなんとなくしてしまう。文学というのはつまり、「話せばわかる」(by犬養毅@5・15事件)という世界なんだと思う。
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2007年4月の読書記録に基づいて本棚を整理してみると、この時期の本は占いの本とウェブおよびそのデザイン関係、マーケティング関係、などが多い。この時期はネットやビジネスの関係にかなり関心が強い時期だったようだ。もしある程度簡単にネットである程度の収入が得られるなら、というようなことを少し本気で考えていた時期だったなと思う。現在、アフィリエイト収入は皆無ではないが、amazonとGoogle以外は実質上0だ。とりあえずサーバー代は出ているというくらい。とても副業などというにはおこがましいのが実情だ。まあこれだけ書きたいことを書いていくらかでも収入になっているだけでも御の字というべきなんだろうけど。占いは二つとも手相。手相は今でも相変わらずよくわからない。
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