カラマツの落葉/本質的な楽しみ
Posted at 07/11/30 PermaLink» Comment(0)» Trackback(0)»
今日は寒いが晴れている。しかし朝は起きられず、目が覚めたら6時半を過ぎていたので散歩は後にした。モーニングページをゆっくり書き、コーヒーを飲んでからフルトヴェングラーの『英雄』を聞きながら活元運動。劇団をやってたころよくやっていた休息のポーズをやってみたら巧く出来なくてあれまあと思う。やっぱり体は変わってるんだなあ。最近全然やらなくなったけどあのポーズは頭も心も結構休まるのでまた思い出したらちょっとやってみたいと思う。
昨日歩いた道を今日は反対に歩いてみる。高校のグランドの横の道を抜け、今まで知らなかった道を歩き、まっすぐ県道に出る。でたところに商店があって自動販売機が並んでいた。そうか、これがこの集落が目当ての店なんだなと思う。今はみな車でスーパーに出かけてしまうから思うように客は来ないだろうけど、この県道は観光地につながっているので案外お客さんは来るのかもしれない。
道を歩いていても、見慣れていた景色が少し角度が変わって見え、空と山の角度が違って見えるので、ものすごく新鮮だ。県道に出て山を見ると、黄葉が美しい。山の落葉松が黄色に染まっているのは、どんな角度から見ても美しいなと思う。少し前に亡くなった私の大叔父が、どんな紅葉よりも落葉松の黄葉が好きだ、と言っていたが、その気持ちが少しわかる気がした。しかし大叔父は満州に渡って苦労してきたから、きっと落葉松にも私達にはわからない特別の感慨があるんだろうと思う。昨年なくなった別の大叔父は戦前は中島飛行機に勤めていたという話を聞いたときも驚いたが、昔の人の生きてきた歴史を聞くと、圧倒されるものがある。
山ノ神社に出て、お参りする。大木が5本ほど立っているが、昨日ほど鬱蒼とした感じがない。社の周りをまわると、後ろ側の木が幹の途中で切り落とされていることを知って愕然とした。そういう木が四五本ある。後ろ側にどこかの会社の施設があり、そこの管理のために木を切ったのかもしれない。わざわざまさに山の神の社の隣にそういうものを構えるなら、落ち葉くらいは覚悟するべきなんじゃないか。誰がやったのかわからないが、そういうことをすると罰が当たるぞ、と思った。人間の都合で、神に属する木を切り倒したりするのは許されることではないと私は思う。しかし、人間はそういうことをしすぎてきた。人間がここまで衰微してしまったのは、まさにそういう罰が当たりつつあるということなのだろうと思う。
横の道をあがるとお寺に出るらしいのだが、このお寺に行ったことがあるのか自分で記憶が定かでない。車で二分ということだが、歩いたら山道だし結構あるだろう。家並みが切れるところまで歩いてあがり、そこで引き返すことにした。
地面を見ると、一面に落葉松の落ち葉が落ちている。落葉松の葉は針葉樹だから松葉なのだが、普通の松葉に比べるとずっと短く柔らかい。まるで刈り取った芝生のようだ。この茶色の落葉松の落ち葉は、上を歩くとふかふかして気持ちいい。枕の中にでも入れたいくらいだ。私は落葉松の落ち葉を一つかみ掴んで、もって帰ることにした。ついでに、桜の葉と、あとなんだろう、少し紫がかった落ち葉を拾って、それも持って帰った。
帰り道、下りの道でちゃんと下を見ないであるいていたら左足をぐきっとしてしまった。よくやることだ。私は上ばかり見て歩いているから。後は慎重に道を下る。よく知っている道を歩いているのに、いつもと違うように見えるのも面白い。
家に帰ってきて机の上に一掴みの落葉松と二枚の落ち葉を置いてみる。それだけで部屋の中に森がやってきたような、いい匂いがする。自然の豊かさ、ゴージャスさというのは凄い。
これはキャメロンのレッスンで、小石や落ち葉を拾ってきて愛玩するというのがあるのだけど、ちゃんちゃらおかしいという気持ちがどこかにあった。でも実際にやってみるとものすごく変化があって驚いた。物を書くのに、自然から霊感を受けるというのは大切なことだ。自分が自然の一部であるということを忘れたときに、人間の堕落がはじまるのだろう。なんか今日書いていることは神がかってきてて我ながら笑えるが。
私の性格を一言で言うと、というのがあまりうまくいえる言葉がなかったのだけど、いいのを思いついた。私の性格を一言で言うと、「行動的な引っ込み思案」だ。そういう矛盾の多い性格が、自分の我ながらわけのわからない人間性を作り出しているんだなと思う。まあ外面は、社会の荒波にもまれてもっと違うものになってはいますがね。
ちょっと昔の自分の作品のことを考えていて、最近あまり評価していなかった作品群も、実は自分の表現したいものが実は内包されてるんじゃないかということに気がついて、もう一度見直してみようという気になった。東京に戻ったらまた読んでみようと思う。
甲野善紀『武術の新人間学』現在160ページ。印象に残ったこと。
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「楽しむということは非常に大事なことです。本質的な楽しみというものは人間にとって何らかの成長を伴うもので、単なる娯楽とは全く違うものです。」
最近キャメロンのレッスンをやっているせいもあるが、全くそのとおりだと思う。というか、現代の人間はそういう本質的な楽しみがあるということを忘れているのだ。単なる娯楽というのは、言い換えてみればお仕着せの遊び、といってもいい。遊びというのは本質的に自分が面白いものを探して、誰が面白がらなくても自分は面白い、ということに熱中するものだと思うのだけど、実際にはこれが面白いよ、と誰かに用意されたものを適当に面白がるかつまらながるか、に留まってしまっているのだと思う。そういうのを甲野は「単なる娯楽」と言っているのだろう。
本当に面白がる、本当に楽しむ、本当に熱中する、というのは実は結構大変なことだ。周りからも理解を得られないことも多い。そういうこともあって、今の人間は本当に面白がる、本当に楽しむ、本当に熱中するという能力が減退してきていると思う。みんなが面白がってるようだから適当にあわせて自分も面白がってみよう、という程度のところで満足することが実は結構多いんじゃないかという気がする。自分だけの楽しみというのは、たとえ密かなものであっても、実は結構その人間にとっては大事なものだと思うし、そういうものを面白がる能力を失ってはならないと思う。
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