ポール・オースター『鍵のかかった部屋』

Posted at 07/10/03

昨日帰郷。特急の中ではポール・オースター『鍵のかかった部屋』(白水Uブックス、1993)を読む。そんなに期待しないで読み始めたのだが、これが面白い。

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
ポール・オースター,柴田 元幸,Paul Auster
白水社

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しばらくの間ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいたのだが、ここの所ちょっと読み続けられなくなって中断している。読んでいる途中で自分がドストエフスキーを求める気持ちが切れて来たという感じがある。長編は、それもこういうハードな内容の長編は、読みつづけるのに必要な物語への関心をつい失ってしまうことがある。それを無理して読むよりは、何か違うものを読んだ方がいい。必要があれば多分、またそこに戻ってくることはできる。

ただ、その乗り越え難い障害というのは何なのだろう。現代小説で途中で読めなくなるということはあまりない。三島を、読んでいる途中で辛くて読めなくなってしまったことはあるが、興味を失ったというのとは違う。現代小説は、書いている人も自分も同じ時代の空気を吸っている感じがして、まあ言わば他人事とは思えなくなるところがあるのだ。それを考えると、19世紀のロシアやフランスは、違う世界なんだ、ということなのだと思う。

オースターは、読んでいて同じ時代だな、と思う。舞台は1976年だから、もう30年も前だ。アメリカが、ちょうど一番自信を無くしていた時代。ウッディ・アレンの『アニー・ホール』と同じ時代だ。しかしあの時代のアメリカというのはなんだか妙な親近感がある。オースターのこの作品も、そういう意味で親近感があるのだろうか。

アニー・ホール

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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現在221ページ中94ページ。読みやすい作品だし筋書きなどはあまり紹介すべきでない性質の作品でもあるので、それは省略するが、「僕」と「ファンショー」の少年時代の関係とか、高校時代の友人との関係を思い出してああ、このころってこういう時代なんだよなあ、と深く思わされた。

小説を読みながら線を引くということはあまりしないのだけど、この小説は読みながらずいぶん線を引いている。ああ、本当にそうだなあ、とか、なんと言うか自分自身が読んでいて身につまされるようなことがたくさんあるのだ。それは「ファンショー」の記述に関しても、「僕」の描写に関しても。特にくじけっぷりのようなところとか。

ああ、時間がなくなってきた。書く暇があったらまたあとで更新しよう。

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