絶対的信仰と自己犠牲/もはやこれ以上愛せないという苦しみ

Posted at 07/09/18

『VOICE』10月号をぱらぱらと見る。一番印象に残るのは、台湾の前総統李登輝氏の寄稿、「指導者の力量」だろうか。

Voice (ボイス) 2007年 10月号 [雑誌]

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安倍首相の政治姿勢には賛意を示しつつも、「人事を掌握できていない」ことに苦言を呈している。政局はまさにそのようになった。李氏は人事に関しては、奥さんの影響の有無、信仰、あるいは哲学の有無を重視している。そのあたりがなかなか実際的で味がある。

また官僚を批判し、その原因を「現場を知らないこと」にあるという。台湾自身のとき李氏は陣頭指揮を取ったが、それは東京大空襲のときに陸軍軍人として焼け跡で経験したことが役立ったという。彼は、必要な復興資金の分配を彼自身が決め、直接行政責任者に手渡している。それだけ卓越した実務能力があってはじめて、あれだけの仕事ができるのだと舌を巻く。

台湾にとって必要なことはまずアイデンティティの確立を急ぐことで、急いで国連加盟を求めることではない、という指摘も彼ならではだと思った。国家の盛衰にとって重要なのは「強力なリーダーがいること」「明確な国家目標を持っていること」「アイデンティティーが確立され、団結していること」だと指摘する。現状の日本は、どれも怪しいが、特に「明確な国家目標」など意識している人がどれくらいいるか。

理想の政治家像として後藤新平を上げている。後藤は政治家として、明らかに仕事における哲学を持っていた、と李氏は言う。李氏自身はクリスチャンで、聖書の強調する愛と公義の精神によって行動している、という。リーダーは絶対的な信仰を持つことで自己犠牲の精神を強く持つことが出来る。「自分が大事」では、リーダーになる資格はない、と断言する。

安倍首相が精神的に追い込まれたのも、結局は理念の部分のブレが原因だったのではないかと私は思うけれども、やはりそこはぶれてはならないというのが、李氏の指摘するところだろう。安倍首相の理念には、強さが欠けていたのだろうと思う。それが政治家としての弱さにつながったのではないかと思われて残念でならない。

***

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』第2巻(光文社古典新訳文庫、2006)読了。

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
ドストエフスキー,亀山 郁夫
光文社

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第二部第6章はずっとゾシマ長老の話。人間の生命がはらむ神秘が古い悲しみを新しい感動に変える、という話()p.376には救われるところがある。考えてみると私は古い悲しみをずいぶんたくさん引きずっている。強い悲しみもそれほどでもないものも、大きな悲しみも小さな悲しみも、たくさんの悲しみがある。それを忘れ去ることは出来ないが、それを新しい感動に変えることは出来る、という発想には感動を覚える。忘れられない後悔を新しい感動に変えることが出来れば、人生はいかに素晴らしいものになるだろう。

人生の充実を自分ひとりで味わおうと努力することは、紛れもない自己喪失につながる、なぜならばそれは完全な孤立を招くからだ(p.409)、というのも最近の私の心境からするとよくわかる気がする。

「一方で命を与えながら、他方で命を奪った身ではないか」(p.418-9)という言葉も印象的。命を与える喜びも知り、命を奪う悲しみも知っている。知ることの苦悩と罪の自覚とでもいえばいいか。だからこそ古い悲しみを新しい感動に変えることが必要なのだ。

人間の自由な欲求を満たすことで世界はますます一体化する、という俗世の主張に与してはならない、というのもなるほどと思う。これは市場万能主義によるグローバリズムによる世界の一体化の主張と重なる。同じ神を世界の人々が信仰するようになるというのはイヤな未来だが、それぞれがそれぞれの信仰を尊重し合える世界で、欲望の充足ではなく自己犠牲の精神で世界の一体化が進められるというなら一つの主張として受け入れることは可能だろう。

一番同意できたのは、「地獄とは何か」を考え、「地獄とは、これ以上もはや愛せないという苦しみ」だという指摘だ。愛を否定するものにとっては、「地獄とは自発的に求められた飽くことの知らないものだ」ということになる。(p.461-5)

「私は存在する、ゆえに私は愛する」というゾシマの言葉はただそれだけ聞くと何を言ってるんだろうという気もするが、「愛すること」「感謝すること」を行動の理念の中心にして考えて見ると、なるほどと思う。つまり、愛することがすなわち「実存」なのだ、ということになる。人間として生きる以上、何かをせずにはおられない。それを実存という、と私は理解しているが、その「何か」を「愛すること」だ、として見せるのは非常に実践的な考え方としてよく出来ていると思う。飽くことを知らず愛し続けることが出来たら、それは極めてアクティブな人生だろう。「もはや愛せないという苦しみ」は、本当の苦しみのものすごく手前にあるような気が今の私にはするけれども、そのように考えてみると私はたいていのときは地獄の中でうろうろしていることになる。まあ考えてみればそうかも知れないけど。

まあなんというか、私はキリスト教の信仰は持っていないけど、いろいろ考えさせられたし、なかなかよかったと思った。神道や仏教の方ばかり読んでいても、何というか感覚的過ぎて理屈がついてこないところがあり、牧師や宣教師の本を読んでも公式的過ぎてどうも心に響いてこない。こういう問題は、やはり文学で扱うべきなんだなあと思った。

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