私が15歳だったらネットカフェ難民に憧れただろう/「計算が合わない小説」と「言葉への身投げ」

Posted at 07/07/09

昨日。日記を慌てて書いたのは、午前10時から自治会の役員会があったから。これが長引き、お昼をはさんで2時近くまで仕事があった。そのせいだけでもないんだろうけど、なぜか疲れが出てしまって、8時過ぎまで寝てしまった。何だかからだが重くて動けず、本も読めない。テレビも見られない。とにかくコンビにまで歩いて夕飯を買うのがやっと。もっとまともなものを食べたいのに。スーパーの方がコンビにより近くにあればいいのに、地理条件を変えることは不可能だ。

何時ごろか忘れたが、NHKを見ていたらウィンブルドンの男子決勝が始まったので少し見ていた。フェデラーのサービスエースで始まったのでこれはフェデラーの圧勝だろうと思っていたらいつの間にか寝ていた。時々起きてみるといつまでたってもやっている。ただどうしても眠気に勝てず、試合が見られない。気がつくとまだやっていて、だいたいナダルの方が優勢みたいなコメントが多いので、ああついにフェデラーが負けるのかなあと思いながら眠りの中に落ちた。気がついたら3時前で、フェデラーがインタビューを受けていたので何だフェデラーが勝ったのか、と思った。そういえば日韓大会のサッカーワールドカップのとき、こんな感じでドイツブラジルの決勝を見損なったことがあってすごく悔やんだのだが、今回はそれほどでもない。スウェーデン語は喋れないけど、見に来てくれてありがとうとフェデラーがボルグに言ったらしいが、それもいつ見たのかよく覚えていない。

オルハン・パムク『わたしの名は紅』読み始める。まだほんの少し。いろいろな人が主人公になって一人称で話が進んでいく、という書き方は面白いな。いつかやってみたい感じがする。


わたしの名は「紅」

藤原書店

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『文学界』8月号。この雑誌、読まないところも多いんだけど、持っててもいいという感じがいつもする。なんというか、嫌な部分があまりない、ということが大きい。小川洋子と川上弘美が次回の芥川賞選考委員に加わるということで、この二人の対談が載せられているが、文学賞の事情や、小説を書く上での感覚のようなものが理解しやすい感じがした。同じ世代の人の言うことはやはり分かりやすいなと思う。


文学界 2007年 08月号 [雑誌]

文藝春秋

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桐野夏生と伊藤たかみの対談。こちらは11歳年上と9歳年下の対談。伊藤たかみは同じ高校(三重県立上野高校・わたしは卒業はしていないが)に通っていたということもあり、言動に注目している部分もあるのだが、この対談は『格差』をどう書くか、というのがテーマだった。フリーターとかニートとか非正社員とかの問題を二人とも取り上げているということが対談が成立した要旨だったようなのだけど、確かにそういう人たちに対して同時代で生きていると言うことはあるにしても、桐野にとっては基本的に「ネタ」なんだなと思ったし、伊藤にとっては割りと身近なものであるにしても、地方出身者の疎外感みたいなものの方がどちらかというと強いんだなという感じがした。

ただ、私は読んでいて、ネットカフェ難民とかマック難民という話を読んでいると、たとえば15歳くらいの自分がそういうことを知ったら、むしろ憧れたんじゃないかと思った。とにかく「東京で生活」できて、ネットをやり放題やれて、何か仕事見つけて日銭を稼いで、みたいな生活、もちろん今では体力的に絶対イヤだけど、10代の体力だけは無駄にあまっているような時期だったら結構楽しいんじゃないかなと思った。難民といっても他称であって、自分たち自身がどう思っているか。先日も書いたが子供時代の自分はとにかく生き残るのに必死的な感じがあったから、当時だったら絶対憧れただろうと思う。「明日のこと」を考えたら暗くなるだろうけど、とにかく今日は楽しい、という感じの生活が10代後半なら送れたんじゃないかとは思う。ていうか、あのころ将来のことなんかまともには何も考えてなかった。とにかく今の環境からは出たい、ということだけだったな。

今、大人の視点でそういう問題を考えると全然違うことになってしまうのだけど、本人たちは必ずしもそんなに悲壮感や悲惨感を持ってないんじゃないかな。大人がそれが問題なんだ、というのはよくわかるのだけど、彼らなりの夢や希望や解放感というものにも考えをめぐらせなければ、分からないこともあるんじゃないかと思う。

高橋源一郎「ニッポンの小説」。大江健三郎や村上春樹の小説を評して、高橋は「彼らは言葉を信じていない」と言い、彼らの作品、発言、言葉は、時に矛盾し、不可解に見え、「清算したとき、計算が合わない」用に見える、という。この感じが、僕はすごいな、と思うし、それは小説と言うものが持つべき力なんだろうと思う。高橋は、たいていの小説はそういう剰余を持っているが、彼らの剰余はあまりに大きく、そして不気味だと言う。大江は読まないけど、村上のその感じは分かる。その不気味な剰余がそれはそれでひとつの世界をなすのが『ねじまき鳥クロニクル』で、それに成功していないのが『スプートニクの恋人』なのではないかという気がする。

大江はどうも体質的に読めない感じがあるのでなんともいえないが、彼の言動を見ていると、確かに不気味な剰余のある人だなとは思う。なんか理知的で良心的なことを言う人なんだけど、実際、本当は何を考えているのか分からない、とでも言うか。やはり何か、ある種の強烈な憎悪に類したものに取り付かれていると言うかもてあましていると言うか何だかそんな感じがする。村上にもそういうものはあるけど、村上の方がスマートだろう。ぶっちゃけて言えば、それは「戦後人」として生きているものの「戦前人」に対する憎悪なのだと思うが、憎悪は無限に増殖するものだから下手をすると人類そのものに対する憎悪にまで発展する可能性があり、それを彼らは理性で押さえているのではないかと言う感じがする。

高橋は言葉を信じ、読者を信じているが、村上や大江はその両方とも信じていない、と言うのは分かる気がする。村上や大江より高橋の方が多分ずっといい人だろうと思う。私自身はどうかというとやはり後者の方で、結局何も信じていないということなんだろうと思う(大江や村上は何かは信じてるんだろう…と思うがどうなんだろう)が、しかし信じなければ生きていくことは出来ないということも今までの痛い経験から理解はしているわけで、つまり、言葉を信じるというある種の「身投げ」(柳美里の言う)を決行するしかない。そういう目で小説をはじめとする文学を読んでみると、まあ結局はみんなそうなんだなと思う。たまに育ちのいい、言葉や読者を信じられる人の書いた幸福な小説を読むと気持ちがあたたかくなるけれども、自分の方法は少なくともジャストそこにはない。羨ましくはある。

しかしものを書くということはある意味何かを信じるということと同義だ。信じる力を鍛えなければならないと思う。

朝これを書いていたら友人から電話があって長電話をしてしまったのでこの時間になってしまった。

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