自分の体と心が組み変わる/トップの写真変更

Posted at 07/06/18 Comment(2)»

自分の中が組み変わる、ということがときどきある。新しい生活に入ると、今まで自分が使っていなかった部分が目覚めて、よく使っていた部分が気がつかないうちに眠りにつく、ということがある。

そういう生活の変化でなくても、何か感動するものを見つけたときとか、誰かを好きになったときに、自分の中に変化が起こることは、多くの人が経験しているのではないかと思う。

それは、自分の中の、何かを感じる回路が組み変わってしまうからだろうと思う。体は、全力で何かを感じようとする。だから、そのために感性の回路まで組み替えてしまうのだと思う。

整体を受けたり、カイロプラクティクに行ったりすると、その日はだるくて仕方なくても、次の日には生まれ変わったような体調になることがあるのと、よく似ている。

本当は、その場で魚の群れが一斉に向きを変えるように、瞬時に感性も組み替えられる、そういうビビッドなあり方であればいいのだけど、日常というものはどうも湿度が高いらしく、感性はすぐに錆びついてしまう。

回路で体の感性を変えたときと同じように、感動するものを見ても一晩寝てようやく自分の中で感性が組み変わるくらいの反応の速さになって来た。

『恋愛寫眞』には感動した。

恋愛寫眞 - Collage of Our Life -

松竹

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結局、何度か少しずつ場面を追って、何度も『恋愛寫眞』を見ている。一番気になっているのは広末涼子の演じる里中静流の左の手の甲に書かれた文字なのだが、これがどうしても読み取れない。「KT」というアルファベットは読めるのだが、そのあとに何が書いてあるのだろう。

最初の大学キャンパスの場面、はじめはずいぶんあざとい演出をするなと思ったのだけど、二度目に見るとあまり気にならなくなり、ちょっと気のきいた演出、くらいに見えてきた。最初は作者の意図するところがあまり見えないから、一つ一つの場面に引きずられすぎたんだなと思う。ヨーロッパ映画だとその一つ一つの場面がものすごく気に入って、逆に映画全体の作者の意図を見損なうこともある。全体と部分のバランス。作品を作るときに考えなければならないことは多いなと改めて思う。

ちょっと心を惹かれるものがあったのは、誠人に少し気があるらしいみゆきという女の子の設定。あのいかにも現代の大学にいそうなタイプの女の子の描き方というのはなんか好きだなあ。映画でも小説でもそうだけど、脇役の固め方が作品の成否を分けるところがある。ニューヨークに行ってからのカシアスの存在感には敵わないけど、東京での場面でのみゆきの少し喉に刺さった骨のような存在感は、好きだなあと思う。ついああいう脇役を描きたくなってしまうんだよな。

小説をああでもないこうでもないといじったり、日ハムが中日にサヨナラ勝ちしたのをテレビで見て喜んだり、気分転換に書店と貸しビデオ屋に出かけて観たい映画を物色したり、の一日。最近、書店にいるよりもビデオ屋にいるほうが楽しくなってきた自分がいたりもする。

ブログトップの写真を変更。昨日撮ったもの。プロフィール写真も変更してみた。『恋愛寫眞』という映画は、見ると写真を撮りたくなる映画なのだ。

"自分の体と心が組み変わる/トップの写真変更"へのコメント

CommentData » Posted by Ai at 08/11/01

ひょんなことで、このサイトに辿り着き
いつも楽しく読ませてもらってます。
体と心が組変わる感じは私も同感です。

CommentData » Posted by kous37 at 08/11/01

始めまして。コメントありがとうございます。

少し前の記事へのコメントはなかなかいただけないのですが、こうしていただけると嬉しいです。

今後ともよろしくお願いします。

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by Luke Peterson

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