梅田望夫・茂木健一郎『フューチャリスト宣言』(1):ネットと反体制

Posted at 07/05/17

梅田望夫・茂木健一郎『フューチャリスト宣言』


フューチャリスト宣言

筑摩書房

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ネットを論じるものを読む機会はあまりない。ネットについて論じたもので読んで強い示唆を受けたものは、梅田望夫の書いたもの、対談したものに限られている。梅田はネットに関し楽観的な信念を持って語るその姿勢が、強く示唆的なものなのだと思う。

この本は、梅田と脳科学者・茂木健一郎の対談だ。茂木という人に対する私の知識はほぼNHKの『プロフェッショナル・挑戦者たち』に限られていた。茂木は「クオリア日誌」というブログを書いているが、その「クオリア」という言葉の意味も知らなかった。

この本は非常に示唆するものが多いし、また一つ一つの問題が大きいので一度には論じ尽くせない。しかし、現代社会の今後についてのビジョンを考える上でテクノロジー、特にネットを無視して語ることはできないだろう。この人間と社会に与えられたネットという問題について論じることは、論者の世界観を明らかにしていく上で有効かつ重要な手段だと思う。

そういうわけでこの本の書評とそこで示唆された論点について連載の形で検討し、論じてみることにしようと思う。飛び飛びの連載にはなるが、最終的にうまくまとめられるとかなり面白いものになりそうにも思う。今回をその第一回としたい。

***

読了した時点で私がとらえたこの本のテーマは、「ネットは本来的な性質として、現状破壊的なとんでもない力を持っている」ということであり、そして「そのとんでもない力が、我々を楽しい未来に導く」、という楽観的な確信だ。梅田と茂木の二人はこの信念を共有している。それが自分たちを「フューチャリスト」と称する所以である。

この考え方について、この本を読む前の私はそうした十分な認識はなかった。それが完全に賛成できるかどうかはまだわからないけれども、考え方そのものについてはある程度理解することができたと思う。

当然ながら、この考え方はまだまだ世間に広く受け入れられているとはいえないし、特に日本においてはそうである。しかしアメリカ、特にシリコンバレーにおいては広く共有される認識であるということは梅田のこれまでの言説によって説明されているといえるだろう。そのギャップはかなり深刻なもので、梅田も「引き裂かれるような」感じをもらしている。従って、なぜそのような認識のギャップが生まれたのか、考察してみることは意味のあることだろう。理解できない苦痛よりは理解できる苦痛の方が耐えられるからだ。

結論から言えば、私はそのギャップの本質は、コンピューターやパソコン、インターネットなどテクノロジー全体に対する認識の違いにあると思う。

インターネットは、その前提としてコンピューターの存在がある。日本ではコンピューターは特に管理的なツールとしてイメージされてきた。コンピューター社会とはまさに監視社会、管理社会とイコールであると考えられきたのである。コンピューターは抑圧のツールであるという観念が非常に強い。オーウェルの「ビッグブラザー」の印象、数々のSFに描かれた「マザーコピューター」的な印象を引きずっている人はまだまだ多いのではないか。もともと国家プロジェクトとして開発されたコンピューターは本来的にそういう権力的な性質を持っていたといえると思う。

しかし日本ではあまり強く認識されていないことだが、パーソナルコンピューターの出現が状況を一変させた。PCはコンピューターを反権力のツールにすることを可能にしたのである。アメリカではPCは反権力、反体制の側が「力」を手に入れることができる革命的な手段として受け入れられた。しかし日本ではテクノロジーはすべて権力側のものであり、悪という認識が強かったように思う。PCの存在も、権力補完的なものに過ぎず、職場に入ってきたPCも対応が強いられる苦痛から抑圧の手段としての認識がかなりあったのではないかと思う。

インターネットは、そうした「反権力をエンパワーするツール」を求める思想の延長上に生まれたものなのである。ネットは「管理が出来ない」というところに本質的な特徴がある。ネットがある種のカオスであることはネットを経験した人ならかなり広く共有される認識だろう。誰でもなんでもできるというところにその本質があるし、そしてその本質は「PC革命」を推進したシリコンバレーの人々のネットは「管理されないも」のであるべきだという強力な主張、強力な意志によって支えられているのである。

ジョン・レノンに『Power to the People』という歌がある。この歌のメッセージは日本では単にロマンチックなものとして受け取られ、政治的・社会的な面の改善が人々に力を与えると考えられ、そしてそれはかなりの程度、挫折した。日本の反体制左翼が基本的に反テクノロジー的なもの、反近代主義的なものを強く持っていることとそれは関係があると思う。テクノロジーを否定することがラジカルであると考えられたのだ。

そのことのぜひは一概に断定することは難しい。私自身の中にも左翼的なものではないが反近代主義はかなり強くあるからだ。しかしそのことが、「PC革命」の意味を深く認識し損ねたことと関係があることは間違いない。その認識の欠落が、日本の反体制派にPCあるいはネットというテクノロジーをエンパワーのツールとして入手することを不可能にしたのである。

ひとつには、日本の反体制が「弱者の反体制」を志向したことにあるだろう。シリコンバレーの反体制は言わば強者の反体制である。国家や体制によって縛られることを嫌うリバタリアンがその典型だろう。しかし日本の反体制はマルクス主義の抑圧や搾取の理論に強く規定され、抑圧や搾取の道具と観念されたテクノロジーを自らの道具とすることへの拒否反応が強くあった。それは言葉を換えていえば、アメリカの反体制が「自由」を志向するものであったのに対し、日本の反体制が「平等」を志向するものであった、と言い換えてもいい。新たな技術革新は平等にとって障害でしかない。少なくとも短期的にはそれを手にするものとしないものとの不平等が生じることは避けられないからだ。日本の反体制はそうした「貧者の平等」を志向するしかなくなり、力を喪失していったのである。

根本的な、あるいは本質的な問題は、日本では「自由」を志向する反体制が勢力として確立されなかった、ということにあるのだろう。もしそれが存在していたら、ネットを自由を得るためのツールとして活用する人々がもっと早くから存在しえたと思う。その勢力の人たちのみが、PC革命やネットの現状破壊的な無限の力を直感的に認識することが可能だからだ。しかしそうした人々は、事実上たとえば頭脳流出という形で日本を離れていった人が多かったのだろうと思う。日本には、そういう意味での「自由」が力を持ちうる基盤が、これまで存在していなかったのである。

梅田の苦労はそういう日本の土壌でそういう「自由」の意味から理解させなければならないということにあるのだと思う。この本の中でも日本は「談合社会」だ、という言葉が何度も出てくるが、それは個人の自由を制約し、才能を伸ばさないことで「みなが少しずつ不満を持った状態での平等」を実現する社会であるということを意味している。いわゆる「護送船団方式」というのはそういうことだろう。中途半端でも生きていける、場合によっては中途半端でなければ生きていけない、社会とはそういうものだと私なども思い込まされてきたのだなあとこれを書きながら思う。

日本でそういう「自由」がかろうじて生き残ってきたのがサブカルチャーの世界だった。だからこそマンガやアニメやゲームをはじめとするサブカルチャーは日本で爆発的な発展を遂げたのだろう。多くの人々の本来的な自由への希求が、凝縮された形でサブカルチャーに反映されたのである。そしてそれが一部の才能ある人々に対してだけでなく、すべての人に可能にしたのがインターネットの出現だったのだ。

対談の中で茂木は日本ではインターネットはサブカルチャー的なものとして受け取られているが、欧米ではもっとパブリックなものだということを強調している。しかし日本においてはそういう歴史的な背景からサブカルチャー的に発展するのは必然だったのだ。「権力に対抗して自由を希求する意志」が十分に育たなかった日本では、「権力への対抗もまたパブリックなものである」という認識も十分に育たず、それはサブカルチャー的なプライベートな欲望を実現するための格好の手段として認識されざるを得なかったのだと思う。

インターネットは管理し得ないものであるがゆえにサブカルチャー的な、子供に見せられない、非常に有害なものであるという認識が日本で広がったのはこれもまた必然ということになろう。

しかし、欧米では逆に管理し得ないものであるがゆえに権力が私物化し得ない本当の意味でのパブリックなものが出現した、という興奮があるのである。欧米でプラスに認識される面が強いことは彼らの伝統から考えても当然のことになるし、我々はそれをたとえ間接的にであっても認識しなければインターネットのプラスの意味をほんとうに捉えることは出来ないということになる。

このように考えてみてはじめて、我々がネットに対し否定的な見解を持ちがちであることが理解できるし、また梅田や茂木が「ネットは本来的な性質として現状破壊的なとんでもない力を持っており、そのとんでもない力が、我々を楽しい未来に導く」、という楽観的な確信を持つことが出来ることがようやく理解できるように思う。

乞御意見御批判。

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