梅田望夫・茂木健一郎『フューチャリスト宣言』と私自身の「自分という問題」

Posted at 07/05/16

梅田望夫・茂木健一郎『フューチャリスト宣言』について論じるエントリをアップする予定だったのだが、もうひとつのりが悪いのでまずこの本に触発されて考えたことを草稿的に書いてみたいと思う。

フューチャリスト宣言

筑摩書房

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人間というものは自ら望んでこの世に生まれてきたわけではないから、自分の存在そのものが自分にとって最大の問題であることはいうまでもない。その「自分という問題」を解決するためにはどうしたらいいかということは一生のテーマである。自分を「こういう存在」と決めてその影像と馴れ合うという行きかたが出来れば問題はそう深刻ではないかもしれない。

というか、人間存在は本来生まれたときから死に直面しているので、その死を避けていかに生き延びるかということが最大のテーマである人間が人類の歴史上から見れば大多数だろう。それでも少し自分というものを考える余裕が出来れば、自分という、あるいは人間という理解し難い存在と付き合うことの困難さはすぐに自覚されるだろう。そういう際に、自分はこういう人間だと決めてしまって余計なことは考えないというのは生きる知恵としては有効なものではある。

ただ不幸にして、あるいは幸運にして「自分という問題」と正面から取り組まなければならなくなったときに、自分という大問題の中にはいくつかのサブ問題が存在し、そのサブ問題はそれぞれに大問題や他のサブ問題と連結し、一気に解決するには難しい問題を常にたくさん抱えることになる。そのうちの多くの問題は考えてもわからないこと、少なくともある時点では、ということが多いわけで結局考えても仕方がない、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という結論を出さざるを得ないものも多い。このヴィトゲンシュタインの言葉は本来は知の禁欲性を現したものなのだと思うけれども、私にはどうも思考を節約するためのおまじない的な役割を持っているような気がしてならない。

人間が日々生きるということが、結局自分という問題を解決する、解決し続けることなのだけど、解決しつづけることによってまた新たな問題が日々発生する。誕生という最大の問題発生から死という最大の問題解決に至るまでの間、人間は毎日問題発生と問題解決を繰り返していることになる。

この自分という問題の中で自分にとって最大の問題は「理性という問題」と「感情という問題」だと言っていいと思う。この二つの問題の解は相反することが多い。理性を取るか感情を取るかというのは結局理性という問題の解決を優先するのか感情という問題の解決を優先するのかということになる。もちろん常に一方を取ればよいというものではなく、そういう考え方をすると後に禍根を残す。その都度全力で考えるしかないのだが、ついつい考えることを節約しようとして人間は失敗する。あるいは考え方そのものにすら至れない場合もあるが。

「理性という問題」においても、解はひとつではない。伝統を重視するとか、合理性を重視するとか、考え方はいくらでもある。現状打破性や非合理性を重視する場合すらあるだろう。しかしおそらく人によってその選択のスタイルはある程度決まっていくものなのだと思うのだが、私の場合がどういうものが性に合うのかということについては長い間忘れていた部分があった。この『フューチャリスト宣言』を読んでいてそれを思い出した。それはイギリス人のある種のディタッチメントについての茂木の説明だ。

もちろん誰にも私利私欲はあります。でも、全体としてどういう潮流が生じているのかを冷静に考えるセンスがある。その判断を、個人個人のストラテジーに関連づけながら、制度設計までも含めてかたちづくることが、イギリスの人たちはものすごくうまい。……

(日本では)ITが我々をどこに連れて行こうとしているかということに関する感受性が、世界観の中心に来ない。

イギリス的なプラクティカルな感覚というのは、シリコンバレーも同じでしょうが、全体を見て、ある種の必然としての社会運動とか精神運動の方向性を考えるという態度が非常に徹底しているということだと思います。

……

感じましたね。エリートたちのそういう感覚を。ヒューマンネイチャーをよく理解しているという言い方をしているという言い方をしてもいいかもしれません。形而上学的に過ぎる『あるべき論』を立てるのではなく、人間というものはこうふるまうものだと理解した上で、人間社会はおそらくこういう方向に向かうだろう、というある種のビジョンや見通しを立てる、そこから、制度設計やルールを考える。

この「イギリス人の考え方」には全面的に共感できる。しかし、現代の日本では「人間というものはこう振舞うものだという理解」から出発することがなかなかできない。人間はこうあるべきだというべき論から始まってしまうので、結論や方策も歪んだものになりがちだ。特に教育などの分野ではそれがはなはだしく、教育工学的な工夫などは現場でもほとんど行われていない。というかそういうものは排斥される。

こういう考え方をしている国があるのだということを知るだけで、正直言って干天の慈雨のようなありがたさを覚える。しかし現実の自分はそれを主張しきれずに現実の現場の「べき論」とあるときは妥協しあるときはそれに対抗する別の「べき論」を立てて抗争対立するといった不毛なことをやっていたことが、不快な記憶として思い出される。

理性というのは本来、人間の限界、不完全な現実を受け入れた上でそれをよりよくしていくための方策を考え、実行していくためのものだと思うのだが、日本では経済合理性であるとか科学性であるとか伝統性であるとか利潤追求原則であるとかさまざまなお題目で割り切っていくことだけが推奨されているような気がしてならない。そういうのは最低だと思うし、そういうものにあわせて泥にまみれている自分もいやで仕方がない、というところがある。

それがいやなら潔くそういうことは辞めて、どんなに非難され無理解に晒されようとも、「人間はどうふるまうものか」についての理解を深め知見を広げ、人間社会の向かう方向についてのビジョンや見通しを立てることに専念すべきだということになる。今私は極力組織に属することを避けているけれども、それはやはり独立した立場からそういう研究を深め、知見を発表していくことを本来は望んでいるからだということがわかってきた。

そういう立場になってからもう長いのだが、どうしても身についた不毛な思考の技術のようなものは抜けず、べき論を振り回してきてしまった。それはべき論でないと結局は理解されないだろうというペシミズムに自分がかなり深刻に染まっていたからだと思う。自分のそういう部分はまだ外しきれていないが、こういう気づきの中でペシミズムをぬぎすてて、自分の理解するところ信じるところを全力で訴えていくべきなのだと思わされた。この本には、そういう力がある。

もうひとつは「感情という問題」だ。若いころは理屈で考えるといくらでも理屈で考えられたのだが、それをはじめると自分の感情を徹底的に犠牲にし、また周りの人の感情も傷つけるということに気がついてから、どうしたら感情という問題にまともに取り組めるのだろうと考えつづけていた。理屈の世界で生きている人間と感情の世界で生きている人間には全然通路がないように感じられて、どうしたらいいのかほんとうに途方に暮れていたのだけど、自分なりに見出した解決策は、いや解決策なんて自分で意識していたわけではなくただ溺れるものがすがっていた藁なのだけど、演劇だった。

演劇にいたる通路は感情問題ではなくむしろ身体問題だったのだけど、身体の感受性、特に緊張とか怯えとかのマイナスの感受性についてはもともとかなり関心を持っていた。それこそそれを解決したいという問題意識からであるけれども。

自分にとっての演劇体験を今総括してみると、つまりは身体問題から首を突っ込んだ演劇で身体と感情の不可分の関係を感じ取り、感情問題における解決の実践(て書けば何だが要するに恋愛とかの問題ね)も演劇を通してさまざまな局面を感じ取っていき、結局アート全般への関心に至った、ということだったといえるのだと思う。私の感情問題の解決は、アートという手段が必要なのだ、ということが理性について考えてみて、自然に理解された。そう考えてみると私の感情というのは相当不自由なんだなあと思ったが、アートという手段をとれば生き生きとした感情というものが取り戻せるなら、アートという手段を取ればいい訳で、それ以上でもそれ以下でもない。

このに本はそういう自分の中にごちゃごちゃとわだかまってどうしたらいいのか方向性を見失っていた問題を解決する力が隠されていたのだと思う。それはつまり、最終的にはポジティブであることを肯定する強い意志ということになるのだと思う。

彼らは信念を持って「進化」を肯定している。私はそれが正しいかどうかはわからないけれども、ただ、その進化を理解しようとするのであれば、それについていかなければならないのだ、ということは理解できる。ネットに関しては今現在がやはり爆発的な進化の真っ只中であると思うし、肯定するしないに関わらずその進化についていかなければ肯定も否定もできない単なる過去の遺物、フランス革命後も「何事も学ばず、何事も忘れず」といわれた貴族たちと同じことになってしまう。しかし彼らも結局は「10億フラン法」によって革命で喪失した領地や領主権をすべてちゃらにされてしまったわけで、新時代に適応できないものは没落していかざるをえなかった。しかし新時代に適応して保守主義や王政復古を常に唱え続けた勢力もあるわけで、ネット時代において保守であるということは、適応しつつ復古や保守を唱えるということでしかありえないのだと思う。それはイタリア共産党の大物に資本家が多かったということに似ている。イタリア共産党はなくなってしまったけど。

現在の進化はあまりに激しくて、進化を肯定する人たちにも進化の全体像は捕らえきれていないから、まして進化を拒もうとする保守的な立場の人たちの理論構築は全く間に合っていない。バークはフランス革命的な普遍主義的な民主主義を否定し、民族に根付いた自然な発展を遂げた民主主義であるイギリス的な民主主義を肯定した。その裏には、デカルトの普遍主義、社会科学・人文科学を物理学モデルで解決しようとする行き方を否定したヴィーコ以来の思想がある。デカルトはすべてに法則性の存在を主張したが、ヴィーコは「自然科学には『真実』は存在しうるが、人間社会には『真実』は存在せず、『真実らしきもの』しか存在し得ない。だから人間社会に普遍的な原理は存在せず、伝統という『真実らしきもの』を尊重して行かなければならない」と主張した。私はこの議論に関してはヴィーコの側に正しさがあると思う。

ネットの進化というのはまさに普遍主義的なものだ。だから普遍主義を否定し民族的伝統を肯定する立場からすればネットの進化に対しては否定的になりそうではあるのだが、このことに関してはどちらの立場を取るべきか、私にはよくわかっていない。つまり、ネットの進化というものが非人間的・機械的なものなのか、人間肯定的・生命肯定的なものなのかがよくわからないからだ。単純なテクノロジー=生命の敵論からいえばネットも否定すべきものになってしまうが、梅田や茂木の議論ではそうではなく、ネットこそが人間の可能性を十全に引き出す言語以来の革命だということになるわけで、確かにそれは頷けるようにも思うからだ。

彼らのポジティブさというのはそういうところから来ている。そしてそのポジティブさに自分が勇気付けられ、エンパワーされている、ということは紛れもない事実だ。とにかくネットの進化というのは肯定否定にかかわらずついていかざるを得ないものだし、積極的についていかなければついていけないものでもある。その進化をつぶさに観察し、進化の方向を見極めながら、よりよいものに進化させつつ否定的な面は否定的に論評していくしかないのだろうと思う。

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