悪魔の出て来る話/才能/自分の本棚を立ち読みする

Posted at 07/05/08

丸の内丸善に出かけて、伝説・民話関係の本を探す。探していたものは自分の考えていたものと違っている。いつ見つかるかわからない、気長に探さなければ。

伝説・民話関係の本を検索で調べ、カルヴィーノ『イタリア民話集』上下(岩波文庫、1984)を買う。マダガスカルやケルトの民話も立ち読みしてみたが、これがいちばん私の感覚にあいそうだ。自分のことがいちばん分からなくていつも苦労するのだが、民話を面白いと思えることはその国に本質的な親近感を持てるということだと思う。フランスやイタリアへの関心は自分の中で表面的なものではないのかという疑問がずっとあったのだが、もっと深いところからのものらしい。

イタリア民話集 上 (1) 岩波書店

民話とか伝説で、子どものころの自分が好きだったのは、悪魔とか王様とかお姫さまが出てくるものが多いのだとここ数日そういうものを読んでみて思う。羊飼いもいい。イタリア・フランスということになるのはそのせいなのか、イタリア・フランスの民話が好きだからそういうものの出てくるものが好きなのか。ダンテの『神曲』が好きなのもそういう好みの延長線上にあるのか。

『フランス幻想民話集』を読んでいると、アンハッピエンドのものが多い。子どものころそういう話は怖くて厭だったと思うのだが、印象として残っているのはそういう話ばかりだ。民話や伝説の語り手・聞き手はハッピーエンドを求めなかったのだろうか。双方がハッピーエンドを求めるようになったことと啓蒙主義は関係があるかもしれないと思う。

***

自分のことがいちばん分からない。このブログを書いているのもそれを知りたいということもあるのだけど、自分で考えて書いてるだけではいつも同じテーマについて考えているだけで、自分が本当に知りたいことには行き着かない、ということもあるのだなと思う。しかし、自分で考えて分かるところの部分だけでもきちんと耕されているのであれば、人との話の中で気がついたところについて考えるのも全く自分についての感覚が錆び付いている状態よりはずっと考えやすい。

ともだちと話して、そのあとで自分でも深く考えてみて、私は今まで「才能」のことについてまともに考えてこなかったなと思った。もちろん人の才能については無責任にあるとかないとかいえるけれども、自分のことについてはとても漠然とした「感じ」しか持っていなかった。ブログでこういう文章を書いている割には、あるいはこういうものを書き散らしているからこそなのかもしれないが、自分の才能というものに正面から向き合ってこなかったなと思う。

才能というものは「能力」というものと少し違う。能力というものが全くない人間はいない、なければ第一生きていくことが出来ない。しかし才能というのはある意味で実態が不明確なものである。「霊」とか「気」とかいうものよりはその存在を実感しそういうものはある、と思っている人が多いけれども、立場によれば、特に教育関係者には「才能」の存在を認めない考え方は強い。それは今の教育が基本的に平等主義だからで、また「自慢高慢馬鹿のうち」とか「能ある鷹は爪を隠す」といったような才能をひけらかすことを否定する、横並び文化が日本に根強いこととも関係があるだろう。

しかしこれは「霊」とか「気」とかと違って才能を持っている人間はめきめきと頭角を現すし、成功に結びついていくわけで、現象面として誰が見ても明らかだ、という面があるからそれを認めざるをえなくなるわけだ。「運」とか「環境」とか「努力」のせいにして「才能」を否定する考え方は強いけれども、「才能」というものが存在するということを前提にしたほうが話が分かりやすいし進展するということは多いだろうと思う。また逆にそういうものの存在を認めないと堂々巡りになってしまう。もちろんすべて「才能」の一語で片付けてもあまり意味がないことも多い。

自分の才能についてあまり考えることがなかった、鈍感だったというのはいろいろ理由があることだが、一つはそういう教育に関わって来ているということはある。才能ということばだけで片付けるには教育はあまりに繊細な問題だからだ。もちろん専門教育になればそんなことは言ってられなくなるだろう。

自分の今までの人生行路の中で才能の有無を考えて態度を決めたことは多分ない。そうなるとけっきょくは好き嫌い、あるいは正邪の感覚で決めていたということになる。どれもこれも絶対的な基準とは言いにくいけれども、好き嫌いよりは才能の有無の方がより絶対性が強い基準だろう。だから才能の有無を見極めるということはより自分を正確な目で見るということと多分ほぼ同義なのだ。

才能は磨けば伸びるし怠れば落ちる。もともとないものを磨くのはできない。というか、今までの自分のことを考えてみると、基本的に「何でもできる(だろう)」と思って来たのだなと思う。もちろん出来ないことがたくさんあるということは40数年も生きてくれば理性的にはよくわかっているのだけど、感覚的に飲み込んでないのは才能というものの感覚について鈍感だったからだと思った。何でもできる(だろう)、というのは出来る内に入らない。

出来ることが才能のあることなのだが、ただ多少出来るだけではそんな人はいくらでもいるわけで、その中で抜きん出ようと思ったらその能力を徹底的に磨く必要がある。抜きん出た才能でなくてもそこそこやっていける分野もないことはないが、そうでない分野であるならば才能は磨かなくてはならない。才能を磨くということは、必ずしも「努力」だけではすまないのが厄介なのだが。

しかしけっきょくは、「才能を磨く」という意識を持つことがアルファにしてオメガなのだろう。「才能を磨く」ことにプラスになることはなるべく積極的にやり、マイナスになることはなるべく避ける。作品になるべきアイディアはある種「天から降って来る」ものだと私の乏しい経験でも思うし、磨きこまれた才能にこそアイディアは降って来るのだろうと思う。

などということを一つには友達に紹介された表博耀という人をウェブで閲覧して考えていた。

もう一つヒントになったのが丸善で「才能」で検索して見つけた里中李生『才能が目覚める男の生き方』(三笠書房知的生きかた文庫、2007)。メモしたことをあげる。

才能が目覚める男の生き方―人には必ず「急成長」する転機がある

三笠書房

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  • (日本は男性社会。)この男性社会で才能を開花させられなかった男たちは、サボっていたとしか言えない。
  • 才能を開花させるためには、それから逃げている人を軽蔑しなければならない。
  • 孤独と戦い、孤独に死ぬ。
  • 「共感」を求める必要はない。
  • 大きな才能に対して「畏敬」はできるが「共感」は出来ない。
  • 幸せよりも喜びを求めよ。
  • 幸福主義では無理やり幸せだと思わなければならないが、快楽主義なら思わず「楽しい」という言葉が漏れる。
  • 幸せは主観的なもの、喜びは客観的なもの
  • 男には「謎」がなければならない。
  • 男が作った世界で女が暮らしている。男が作った汚い世界よりも、男が作った「高級」な世界に連れて行くべきだ。

異論反論同意羨望いろいろあると思うが、何というか突出した才能であろうとするならば、こういうある種の「何考えてるんだこいつ」というようなことを言わなければならないだろう。「何考えてるんだこいつ」とある種呆れるような常識の外にあるようなことを実現することが突出した才能であるということでもあるからだ。


特に考えさせられたのは「共感」は求める必要がないということ。共感をえられないことを恐れる必要はないということだ。また、才能を伸ばすということには「切り捨てる」という作業が重要だということ。本棚の整理をしながら思ったが、今自分が求めている、必要であると思われる本以外はしまうとか売り払うとかして見えないところに片付けた方がいい。しまってしまうと取り出しにくくなるからこの本を今の自分が読みたいかどうか真剣に検討してみて、しまうか書棚に置くかを決める。昨日からずっとそれをしていて、その分ける作業のために中身をもう一度立ち読みしているのだが、忘れていた内容が蘇ってきてそれだけでも収穫がある。考えてみれば本屋で立ち読みして買うかどうか決めるときほど、真剣に一つの本の価値を吟味しているときがあるだろうか。自分の本棚の本もときどき立ち読みしてみるべきなのだと思った。

この本にはほかにも面白い内容がたくさんある。読了。

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