携帯原始人/トップ画像更新/近藤ようこと青春の復讐

Posted at 07/05/01

雨が降る前に出かけようと思っていたのに、その前にいろいろやってしまおうと思っているうちにどんどん時間がたって2時を回ってしまった。今週は休みにしたので郷里には帰らない。思いつくまま仕事ができるのはいいが、なんとなく始めていつまでも終わらない、という循環にすぐ陥ってしまう。連休だからこそ考えることもあり、見直す自分もあるのだが、際限なく自分の世界に入って行ってしまう部分もあるし、いってしまうとなかなか戻って来られないのは世の常だ。

『まなざしとかぜ』を作ってみて、携帯のサイトというのはPCとは本当に別の世界だなということを強く感じる。アナザー・ワールドだ。携帯にしかないコミュニティがあり、携帯しか見ない人たちがいる。携帯の画面も、私はi-modeが始まった頃から使っているので何でも知っているつもりになっていたが、最新のFomaの画面を見ると、まるで石器時代の人間がツクモRobot王国に来てしまったような戸惑いを感じずにはいられない。ヤフーモバイルの画面とか見て「ヤフーだ、ヤフーだ!」と叫んでいるようでは猿の惑星だ。

mixiも携帯に登録してみるとFomaカードのデータを使って個人を識別するという技が使われていて、movaしか使ったことのない身にはいかに時代に取り残されていたかということを知って愕然とする。もうパケホーダイだから、と思ってどんどんサイトを見るが、数年前の当たり前のように見づらかった時代のi-modeから比べるともうヴェルサイユ宮殿に迷い込んだクロマニョン人のようなものだ。本当にたくさんの可能性がここに眠っているのだと、自動車を見た20世紀初頭人のように興奮を感じるが、生憎時代はすでに21世紀初頭なのだ。喩えがくどい。

まあとにかく、そんなこんなでいろいろ工夫を重ねている。

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5月になったのでトップの画像を変えようと思い、撮り溜めた写真を見て、一応この風景写真にした。(4月はこの桜の写真)最初はこの藤の写真にして見たのだが、どうもなんとなく暗い。一応のこの風景写真のほうがなんとなく面白いかなと思った。5月っぽくもなければ連休っぽくもないが。(笑)画像選びというのはどうも時間がかかるし、文字などの配置をちゃんとしようとするとかなり神経は使うし時間もかかる。それでいて出来自体はさりげないものだから、何だか労力を損した気がしてしまうのだが、画像に関わる仕事って何でも大部分はそんなもんなんだろう。

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昨日は夕方神保町に出かけて本を物色。いろいろ探したが、結局三省堂で近藤ようこ『水鏡綺譚』(青林工藝舎、2004)を買った。

水鏡綺譚

青林工芸舎

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私は近藤ようこの作品が好きなのだが、何でも買う、というわけでもない。ただ、時代物は全部ほしい、とは思う。中世から戦国の時代をマンガにしている(それも中世文学の素養に基づいて)人はほかにいない。大傑作は『説教小栗判官』だが、これは何度読んでも泣く。

説経小栗判官

筑摩書房

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青林工藝舎の本は厚さの割には高いので、どうも二の足を踏みがちだが、逆にこれはずいぶん厚い本だったので(448ページ)、買う気になった。現代ものでは、デビュー作の『仮想恋愛』のような抽象性の高いものはわりあい好きなのだが、ほかのものは時により好き嫌いが分かれる。なんとなく中島みゆき臭くなっているときは(いや、中島みゆきは中島みゆきで結構好きなのだ、LPも何枚も持ってるし)ちょっとイヤだなと思うときもある。しかし『仮想恋愛』は、一時自分のバイブルのようなものだった。

仮想恋愛 (1982年)

青林堂

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『水鏡綺譚』を読みながら(まだ読みかけなのだが)、近藤ようこの作品が自分の心の中にどんなに奥のほうまで入り込んでいる作品であったかということを思い出した。読みながら『説教小栗判官』を引っ張り出し、もう一度通して読んでしまった。照手姫の夢の中で馬に後ろ向きに座らされて冥土に行く小栗、という絵。たくさんの僧侶が描かれ、追いかける照手が描かれ、そしてすべての登場人物の中で小栗だけがこちらを向いている。この絵がもう一度心に突き刺さる。それを見ていたら高野文子『絶対安全剃刀』が読みたくなり、探し始めたのだが、みつからない。ダンボールに入れてどこかにつんであるのだと思うが、高野文子を仕舞いこんでしまっている自分て一体、という気がした。

絶対安全剃刀―高野文子作品集

白泉社

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好きな、あるいは影響を受けた女性のマンガ家を三人上げよ、と言われたら高野文子、近藤ようこ、こうの史代だろうか。(しりとりではない)高野は高校時代から大学1年にかけて、近藤は大学2年からずっと、こうのはここ1、2年だが。なんというか、マイナーで地味な作家たちだが、この人たちにしかないものを明らかに持っている。考えてみたら、ほかにも安野モヨコとかずっと昔だが竹宮恵子だとか好きな人はもちろんいるのだけど、生きるってこととかを考えさせられる作家というのはそうはいない。

長い道

双葉社

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男のマンガ家では山田章博、伊藤重夫。絶対的というのはあげにくい。好きなマンガ家といえばまずは諸星大二郎、花輪和一、もりもと崇、と結構名前は挙がっていくが、影響を受けた、というところまで深いかどうか。諸星には観念的には相当影響を受けてはいるだろう。生きるということ、というところまで深くなるとちょっとよくわからない。業田良家とかもいいんだけど、あんまり達者になってしまうとどうもちょっと違う感じになってしまう。文学崩れとか、アート崩れの雰囲気がある人のほうが自分には入ってくる感じがするんだなと思う。このへんは多分表現の商業性の問題だ。

もちろん、手塚治虫や石森章太郎、小林よしのりや細野和彦といったいかにもプロという人たちの作品も好きではあるのだが、それはすべて「大衆」に向けてかかれたものである、ということがあまりにも明らかで、「私個人」に向かってかかれている感じがしないから届くものが少ないのだろう。商業マンガというのは圧倒的に大衆に好まれる線、大衆に好まれるストーリー展開、大衆に好まれるコマわりなど、ある意味微に入り細に入り徹底してシェイプされている。その徹底性が強靭さとなって現れていて、作品としては強いが親近性が低い。子供のころはもちろんそうは感じなかったのだけど。

多分私などは、長い間大衆性とか商業性とかいうものとは遠いところにいたんだなと思う。ずっとそういうところで戦ってきた人たちには、そうは映らないと思う。

こういうもの、近藤ようこや伊藤重夫のようなものが自分の原点かというと難しいが、自分が自分でありたいと思い始めた17歳の頃からの、つまり「青の時代」においては原点であったといっていいのだと思う。自分とはどこからどこまでが自分なのか、という問いが多分、いま自分の中にあって、そのことについてずっと自問自答している。自分の中で自分らしかった時期と自分らしくなかった時期がある、というアイデアに取り付かれると容赦ない仕分けに直面する。青春時代から脱皮しようという漠然とした気持ちがおそらくはここ数年、いやもっと長くだろうか、あったのだなと思うけれど、今その気持ちが青春時代の自分の今でも残っている何物かに復讐されているということかもしれない。

自分がほしいものが、見えてきたような、見えてこないような、見えてきたような。

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by Luke Peterson

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