見栄と洞穴

Posted at 07/04/07 Trackback(1)»

昨日帰京。特急の車内で筒井康隆『短篇小説講義』を読了。最後に取り上げられていたローソン「爆弾犬」が面白かった。スプラスチックの原型となった小説という感じで、そのパターンを筒井が解説しているとちょっとはまりすぎだが、面白い。

短篇小説講義

岩波書店

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特急が少し遅れ、東京駅を過ぎたときも少しいつもより遅かったが、スイカに残高があまりないので東京駅のATMでチャージ。地元の駅で降りて書店を少し物色し、スーパーに歩いて買い物をして帰る。帰りに桜並木の道を歩いたら、夜桜がきれいだった。この道を歩いてよかったと思った。

朝起きると少し疲れが溜まっていて、少しサイトなど見たが二度寝する。荷物の宅配を待っているうちに友人から電話がかかり、話していたら荷物が届いた。不祝儀の引き出物のカタログ選択でパーカーの万年筆を選んだ。パーカーを使うのは初めてだが、わりといい感じだ。


パーカー万年筆ソネットブラック

電話を切ってさて日記を書こうとPCの前に座るがどうも調子が出ない。一度あきらめたが先ほど見たサイトのうちに書こうと思ったことはあるので書いてみることにする

ひとつは武術家甲野善紀氏が桜井章一氏と対談したことについて書いている記事。(以後敬称略)甲野の言うには、桜井のすごさは「見栄で世の中を渡っていない大人であるところ」なのだという。なるほど、見栄か。見栄でなければ本音、本質ということになるだろう。本質だけで世の中を渡っていくということは相当大変なことに違いない。それができるということは本当に力があるということ、上杉謙信ではないが本当の強者である、ということなんだろうと思う。

誰にでも見栄はある、普通は。で、見栄というのは何かといえば、自分を実際よりも大きく見せたいという気持ちとそれによって突き動かされた結果の行動ということになるだろう。で、人間の動きのかなりの部分がそういうことに由来するということもあるわけで、それを完全に削ぎ落とすことができるというのはすごいことだ。

人間に「見栄」がある理由は二つあって、一つは「色気」があるからだ。自分をよりよく見せたいというのはある種の本能で、女性の化粧もあれば男の大言壮語もある。人に自分をよりアピールしたいというある種の生存本能の表れということもできる。逆に言えば、普通の意味で見栄が全くなくなると、生命力の減退ということになり、少し危ない。

もうひとつは、人間が弱いものであるからだろう。人間が弱いものであるから、それを隠すために、あるいは弱い自分を見たくないために、見栄を張る。弱いものが強くなるためにはある種の戦いを重ねなければならないが、戦いきれない弱さのあることを自覚している人は多いから、その弱さと正面から向き合うのがイヤだから、見栄を張るということになる。虚勢をはるとか弱い犬ほどよく吠えるといった類の話だが、それで何とか精神の平衡を保ちえる、という場合も多いのではないかと思う。

弱さというのは具体的には常に不安という形で現れる。絶対の強者に対し絶対に一歩も引かない、ということが実際に出来る人がどのくらいいるのかどうかわからないが、見栄がない、ということはやはりこの「弱さ」を克服しえたということなのだろうと思うが、まあ私には今のところ理解しきれない。

見栄とか色気というものが世の中を面白くもし、また複雑に大変なものにもしているのは実際事実だとは思うが、まあ何だか人間の業そのものだと言い換えてもいいんだろうなあと思う。それが出来たら輪廻転生から解脱できるということだろうが。

霊的なもの、について、甲野は実はかなり造詣がある(『随感録』の過去ログを読むとよくわかる)が、そちらのほうで世の中を変えることは出来ないということは強く認識しているようだ。中国の現在の「気功」に、「大霊道」というものが強く影響しているということは始めて知った。気功関係者が来日しても誰も大霊道を知らないので驚くのだという。しかし、甲野によれば、結局そういう霊的なもので社会意識を変えようとする人は「そうした団体の創始者は術者としての実力はあっても、結局、名誉欲や支配欲がどうしてもかなり残っている」ことがひとつの大きな原因ではないかという。それはまあそれとして確かに分かることだ。

だから甲野は「私が現在の科学的トレーニングの問題点を指摘するのは、そういった『科学的トレーニングが科学的以前の、きわめて常識的、論理的にみておかしい所が多々あり、中学生でもある程度思考力がある者なら気づく筈である』という事」で、そういう常識的な宣から世の中を啓発していくことに望みをかけている、ということのようだ。まあ私もそれが現代においては王道だろうと思う。

私は美輪明宏とか江原啓之などはある種偉い人たちだと思うのだけど、彼らがゴールデンで番組を持つということにはやはり危惧を覚えざるを得ないところがある。世の中というのは悪意に満ちたところだし、その中で霊的なものを正面から社会にぶつけていくことが本当にいいことなのか私にはわからない。もちろんそれが冒険であることは理解したうえで挑戦しているのだろうしそれならば尊いことなのだろうと思うけれども、やはり傷つき敗れ去る姿も容易に想像できるわけで、心が痛む。あるいは結局はキワモノの、一過性のものとして忘れ去られることに終わるか。そして、世の中にあまり受け入れられすぎるのも社会の根幹に何か微妙な変動を呼び起こしそうだし、それがどうなるかわからないという危惧も感じる。まあ神経症的に心配しすぎな気もするが、多分そういうことは自分のトラウマ的なものと重なるところがあるんだろうと思う。

今回の『全生』でも整体協会の野口裕介理事が、本人が野口整体に熱心でも奥さんや子どもが理解がないとその点において家族から孤立し、体調を崩しても見舞いに行くことも難しくなる、ということを言っていて、そうだろうなと思う。整体協会は現在の会長は細川護煕元首相で、それだけある意味エスタブリッシュされた団体であってさえなかなかそうなのだから、そういうことにおける苦労は想像に余りある。

見栄を脱して本質で勝負するというのは、そういうある意味での「科学的な偏見」にも囚われずに行動できるということで、それは桜井章一の雀鬼麻雀であるとか、甲野における古武術のような完全に独自なひとつの世界を構成しえて初めてできることであるとも思う。もちろんそれを実現するまでに限りない戦いや挑戦があっただろうと思う。しかし彼らもその館から一歩出ると激しい攻撃や嘲笑に晒される危険は現在でも常にあるわけで、心が折れないようにしながら自らの発見を伝えていくことは常に困難との闘いであるだろうと思う。「もういい。もう十分生きたよ」という桜井の言葉の重さは、そういうところにあるのだろうと思う。

***

もうひとつは茂木健一郎『プロフェッショナル日記』の「逃げてもいいんだ」エントリ。感銘を受けることの多いNHKの『プロフェッショナル』だが、茂木がこういうブログを書いていたとは今まで知らなかった。実は「はてなアンテナ」の「Feel in my bonesのおとなりページ」のなかに「茂木健一郎クオリア日記」というのがあり、そこからリンクをたどって見つけたのだった。たぶんはじめて認識したが、私と同年だ。

「逃げ込む暗い洞穴を間違いのないかたちで見極めることで、人は大成できる。逃げてもいいんだ。ただし、自分のライフワークの中に逃げよ。」という言葉はいいなと思った。逃げ込む暗い洞穴。それはなんだろう。吉田都の場合はバレエの練習であり、モーツァルトは作曲、ゴッホは絵であった、というわけだ。今のところ私の洞穴は、ネットの文章そのほかの表現なんだろう。これがライフワークにできるか……そんなことはわからないが、とにかく書き続けることによってしか何も見えてこないのだとしたら、まさに逃げ込んだ暗い洞穴だ。何か見えてくるまでにどれだけかかるか分からないが、「間違いのない形で見極める」ことが出来るかどうかはまだまだこれからの話だと思う。

***

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