村上春樹訳『ロング・グッドバイ』:翻訳調ではなく村上調

Posted at 07/03/14

昨日帰郷。昼から夜にかけて仕事。一人休んだ人がいたので普段よりかなり忙しかった。

帰郷の車中ではチャンドラー・村上春樹訳『ロング・グッドバイ』を読む。チャンドラーを読むのは実はこれが初めてなのだが、なかなか面白い。まだ84ページだが、なるほどフィリップ・マーロウというのはこういう造形かと思いながら読む。いろいろなものから洩れ伝わるマーロウ像からして、もっとあざといものかと思っていたが、ここまで読んだ限りではもっとナチュラルな感じだ。ハードボイルドというものを伝えるために伝える側が誇張して表現してしまうからなんだろうなと思う。その部分だけ取り出してしまえば、やはりあざといのは当たり前なのだが。


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帰郷の際にヘッドセットも持ってきたのだが、いつも使っているノートパソコンで東京にいるときと同じような作業をしてラジオ放送をしようと思ったのだけど、パソコンの体力が不足しているせいか、電源ノイズのような雑音がかなりのレベルで入ってしまい、ちょっと聞き苦しい。多分機材の限界の問題のようなので上手く解決できるかわからないけど、うまく行ったらこちらからでも配信することが出来るのだが。

どこかに書いたかもしれないのだけど、私は村上は必ずしも好きな作家、というわけではない。政治的な発言とか聞いていると、かなりの隔たりを感じる。しかし何が彼の作品を私のような人間にも読ませるのかと考えてみると、彼の作品世界は近代小説の意味での自我の葛藤などを描いたものではなく、何かもっとよくわからない不気味なもので、彼はその不気味なものを現世に伝えるある種の霊媒師のような存在、という感じがするからなのだと思う。そして、その霊媒師的な技術というものが、彼にはかなりある。イシグロは尊敬に値するが、村上は尊敬できる、という人ではない、とある人が言っていたが、それは個人、あるいは自我としてイシグロの試みというものにはある種の崇高さがあるのだけど、村上は自我としては職人というか、技術者的な感じがするということなのかなあと私は解釈した。

『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』など、「あちら側」の持つリアリティのようなものを村上は書いていて、そのあたりがもう一つ日本の文壇に受け入れられない原因なんだと思うが、私はそういうものはわりあい好きだ。つまり、村上は肉体の世代的には全共闘世代なのだが、作品世界としてはまあいわばポストモダンなのである。その部分が私などの世代には受け入れられたのだと思うし、その部分が今日的にはややアウトオブデートな感じを持たせるのだろうと思う。

私は村上の翻訳は好きだ。村上は翻訳の場合は、自我を出さずに技術者に徹していて、作家としての技を駆使して英語と日本語の境界を越えて浸透する力を持った言葉を引き出してくる。翻訳という作業は異なる言語体系にある言語体系の精華を持ち込むことだから、翻訳家は当然ものすごく大きなジレンマを抱え込むことになる。そしてそれがゆえに翻訳的正確さを伝えようとする翻訳家の良心と意味内容を日本語の体系の中で伝えようとする「意訳的」な翻訳家の良心とが常に衝突することになる。そしてその結果、あるいは妥協の産物として生み出されるのが「翻訳調」の文体ということになるわけだが、村上の文章は作家としてのある種の技術を駆使して翻訳調をはるかに越えた練れた言葉で語ることが出来、それはすごいなあと思う。黒子に徹し、それでいて村上にしか出来ない作業。もちろんそこはかとない「翻訳調」ならぬ「村上調」がかもし出されるところはあるがそれはまあ製造者責任印みたいなもので、それはそれでいいんだろうと思う。

まあそんなことを考えたのも、実はラジオと関係がある。村上は翻訳を黒子でやってるな、という感じは前からしたが、実は小説に関してもある種の黒子、霊媒師的なやり方でやっているのではないかとさっきインターネットラジオの試験録音で村上のことを語りながら思ったのだった。文章を書くことにより発声するリズムのようなものと、語りにおいて生まれるリズムのようなものはやはり全然違うなと思う。それぞれの持ち味を生かしながら、いいものを双方で作っていければいいなあと思う。

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