昭和20年8月6日広島生まれの聖火ランナー

Posted at 07/02/01

昨日。午前午後とウェブの作業や松本の仕事の処理を進める。『金持ち父さん』も少しずつ読む。自分の抱えている問題点を再検討してみる。一口で言うのは難しい。ただ現状、何かある方向に偏る傾向があったことは確かだなと思う。偏っていていいのか、自然な方向に戻した方がいいのか、ちょっとそれも難しいところがあるのだが。

夜、仕事が終わったあと食事をしながら『その時歴史は動いた』で東京オリンピックのエピソードを見る。いろいろ知らないことが多く、勉強になった。1940年に開催予定だった東京オリンピックが中止になったのはアメリカなどが不参加を言ってきて中止に追い込まれたのだということは初めて知った。1948年のロンドン五輪のときの参加拒否の言明は「われわれはプリンスオブウェールズを忘れない」だったというが、まあ戦場の恨みというものか。1952年のヘルシンキ五輪に参加出来たのは冷戦激化による西側の強化ということだったという。マニラの第2回アジア大会(1953だったか)で日本選手団は物を投げられたりして大変だったというが、フィリピンの対日感情の変遷についてはあまり知らないなあと思う。

1957年に東京五輪の招致をはじめたとき岸首相は最初は不熱心だったが開催による経済効果の説明を聞いて賛成に転じ、オリンピックに間に合わせるための大規模な建設ラッシュが始まったわけだが、競技場だけでなく首都高速や外国人用ホテルの建設、新幹線の建設などちょうど岩戸景気あたりと重なったということか。外国人を連れてきたら東京の発展を見せて京都の伝統文化を見せるというパターンが出来たのも多分この頃なんだろうと思った。

日本が平和国家になったということを世界に示すことを招致の中心になった田畑政治は考えていたというが、そのために聖火リレーをアジア各地で行ったということは、昨夜の番組の中心になるエピソードだが、初めて知った。ラングーン、バンコク、クアラルンプールとリレーしてマニラ、香港、台北、沖縄を経由して日本全国を回ったのだという。「アジア最初のオリンピック」ということでのアジアの人々の好意の盛り上がりのようなものはあったのだろうと思う。反日とアジア人としての共感というものの両方が当時は交錯していたのだろうなと思う。

聖火の最終ランナーが昭和20年8月6日に広島で生まれた青年だったとは知らなかった。一緒にテレビを見ていた父はそのランナーの背景だけでなく名前まで覚えていたからちょっと驚いたが、それだけ印象深いことだったのだろう。アメリカにとって面白くないことは確かだが、それを実現させたということは田畑という人には骨があったということなのだろうと思う。日本人にとっての戦争の象徴が「原爆」であった時代というのは確かにあったなあと少年時代を思い出す。

閉会式のとき、選手が国別でなく思い思いに一段となって出てくるのが東京五輪の時のハプニングからなのだということははじめて知った。そのことから見ても「平和」とか「世界はひとつ」というメッセージを選手たちに対しても送り出すことは十分に成功していたんだなと思った。そういう意味では戦後の日本の一つの最高の瞬間だったのだろうなと思う。内容は何であれ、とは言ってももちろん「良い」ものでなければ意味はないが、日本はこうしたメッセージをもっと世界に送る国になる必要は今も非常にあるなあと思う。

印象深い番組だった。入浴後仕事の残りを少し片付けて就寝。

2月になった。6時に目が覚めて久しぶりに『バロックの森』を聞いた。朝、明るくなるのが早くなった。少し腹の調子がおかしいので足湯をしてみる。ここのところの方向性の偏りを偏りとして意識できるようになった。少し心が澄んできた。それ自体はいいことなのだが。

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by Luke Peterson

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