絵を描くということ/われわれは未来に向かってバックしている
Posted at 06/12/28
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昨日は松本に出かけたのだが、なんと日付を一日間違えていて出直さなければならなくなってしまった。とりあえず他の用事を片付けたが思ったより時間がかかり、ずいぶん時間を潰してしまった。なんと言うか、いろいろ気をつけなければいけない点があったのにそれを確認せずに動いてしまったのが昨日の場合はまずかったなと思う。急がば回れとはこのことだ。
夜仕事をしていたらなんとなく調子が悪くなってきて困った。仕事は最後まで持ちこたえたが、夕食後はさっさと入浴して就寝。11時前に寝たのは久しぶりだろう。朝起きてもまだ不調っぽさが残ってはいたが、まあ何とかなりそうだ、今のところは。
寝る前にビートたけし『達人に訊け』の桜井章一との対談を読み直す。昨日読んで印象に残ったのは、麻雀とは絵なんだ、というところ。将棋の羽生も、将棋は絵なんだといっていたという。自分に会う絵なら勝てるけど、調子の悪い絵なら劣勢だから、自分にとってのいい絵にしていこうとすると。漫才でも頭の中に絵のないやつはダメ。言葉でやろうとしても面白くない。自分の中で面白い絵があるとワーッと喋っていけるけど、絵がなくて言葉が優先すると何をやっていいかわからないことが多いとたけしはいう。桜井も、麻雀でも数、つまりピンズマンズソーズを揃えようとすると、数というものは部分的なものだから、絵の感覚になると全体感でとらえられる、という。
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このあたり、なんというか、自分が舞台に立っていたり教壇に立っていたりしたとき、「ノリ」として捕らえていた部分とかなり重なるような気がする。絵、というほど明確なものが見えていたのかどうか、よくわからないが、こうすれば客(あるいは生徒)はこう反応する、こういえばこう笑う、というようなことが上手く想像できているときは舞台も授業もうまく行く。あんまり想像どおりいくと最初は妙な感じがするし怖い感じもするときもあるが、そのうち面白くなってどんどん余計なことをプラスしていく、という感じ。絵に加筆していく感じだろうか。それは何か理性によって構築するものではなくて、感覚的に自然に現れてくるもので、小説や戯曲などを書いているときも上手く絵がかける、つまりその場面を想像できるかどうかということは大きい。これは多分、エッセイやブログを書いているときも同じだろう。
難しいのは、自分の意志でそれが構築できるというものではなく、動いているうちになんとなく出来てくるもので、だからとにかく書かなければ小説における場面は現れてこないし、麻雀の絵も表れてはこないのだと思う。舞台もそうで、どんなにゲネプロまで練習を重ねても、初日が明いたら芝居の仕方は全然変わってしまうのだ。これは授業でもそうで、レジメをしっかり作っておいてもその日に現れてくる「絵」というものがどうなるか、蓋を開けてみなければわからない。
ただ、そんな風に考えるのはきっと役に立つことだろうと思う。準備はそれなりにしっかりしなければならないが、舞台や、授業や、勝負や、執筆のその「引き返すことの出来ない時間」に、その時にしか描けない絵を描く、それは自分の力だけで描くのではなく、何かいろいろ「降りてくるもの」であったり、聴衆の反応であったり、勝負の相手の出方や動きであったり、いろいろなのだが、絵というのはそういう一回性の、一期一会的な、その時にしか描けないものなのだと思う。
この感覚がしっかり自分のものに出来るかどうか、ということが大事なことだな、と思う。けっこう見失いがちなことだ。私の場合は自分の力、つまり力技で片付けてしまおうという悪い癖があるのだよなあと思う。
時間のあるときに『日本歴史』(日本歴史学会編集、吉川弘文館)の2007年1月号を読んでいた。特集は「日本史のことば」というテーマでなかなか興味深い話が多く載っていたのだけど、巻頭の勝俣鎮夫先生の「バック トゥ ザ フューチュアー」が一番面白かったといっていいだろう。これは中学の教科書にも出てくる「正長元年よりさきは、神戸四か郷に負い目あるべからず」(一部読み下し筆者)という有名な碑文の、「さき」という単語に注目し、これが「正長元年以前」という意味なのか「正長元年以後」という意味なのか、混乱がある、という話を書いていた。私は「以後」だとばかり思っていたが、勝俣先生によると「以前」という意味なのだという。その論考については『日本歴史』を読んでいただけばいいが、古代以来「さき」というのが過去を示していたのが未来をさすように変化するのが戦国時代で、それは「過去と現在は見えるが未来は見えない」から目の前にある過去と未来を「さき=before」と表現し、目に見えない未来を「あと=behind」と表現した古代的なものの考え方の名残だというのである。つまり、ポール・ヴァレリーの言う「われわれは後ずさりしながら未来へ入っていく」ということばはまさに古代人の実感で、future はわれわれのbackにあるということなのだという。(この映画の題名も、古代ギリシャ以来のそういう言葉に基づくらしい)
なるほどそういわれてみると目から鱗が落ちるようだ。われわれは未来に向かって「前」に進んでいく、とよく言うが、その割にはいつも「前」は全然見えない。見えるのは「背後」だと思っている過去のことばかりなのである。見える過去を「前」と考え、見えない未来を「背後」と考える歴史感覚が、伝統社会のものであって、見えない未来を「前」と考えるいわば倒錯した感覚が近代社会のものなのだ、と言われると、なるほどわれわれは未来に向かってバックしているのだ、と納得できるのである。未来が見えるのは、背中に目がついている特殊な人間だけで、つまりそれはさっきの話ではないが「絵」が描けるかどうか、ということであり、それにしてもそういう限定的なことなのだろうと思う。
まあ印象に残ったことを書いたがだからそれをどう解釈してどう生かすかというとまああまりよくわからない。ただ見えるはずのない未来を見ようとするならば、絵が描ける人間になるしかない、ということなのだろうなとは思う。
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