「美しい花がある、花の美しさというものはない」

Posted at 06/11/08

昨日はなんとなくばたばた。ただ、仕事はそれなりに順調に行き、まあこんなものかなと。雨が強く、風も強く、こういうときは落ち着かない。

朝目が覚めると、とても冷えてはいたがよい天気だった。散歩に出て、周りの山を見ると、まだ下のほうは暗いのに、山なみの上の方だけほんのりと赤くなっていて、明るさがだんだん広がっていっていた。落ち葉は少ししゃりしゃりして、もう軽く凍ったようだ。これから気温が氷点下まで下がる季節になる。

近くのセブンイレブンまで歩いて『SUPER JUMP』を買う。新連載の「NEWS MAN」期待が持てるか。第3回目となった「銀のアンカー」も結構引っ張って読ませる。「働くとは何か」ということがテーマらしく、興味が引かれる。「王様の仕立て屋」は新展開、白生地のクレリックシャツか。既製シャツの利点というのもなるほどと思う。

書名は忘れたが、英文法についてかかれた本を読んでいて、現在進行形のingが現在分詞か動名詞かという論争について書いてあったが、これは起源を遡ると普遍論争に行き着くのだという。普遍は名のみの存在か、実態として「ある」のか、というアレである。たとえば人間という存在が『人間』というイデアを志向する存在なのか、それとも普遍的な『人間』というものは理念としてあるに過ぎず、実際に存在するのは個々別々の個人だけなのか、ということだ。あまりこの問題を今まで真剣に考えたことはなかったし、保守的な実在論=イデアリズムに比べて唯名論=ノミナリズムというのは非常に破壊的・革新的であまり好きではなかったのだけど、自分自身の指向としては個々別々の人間を見ていきたい、一般論で簡単にラベリングして片付けるような行き方はよくない、ということは以前から思っていて、そういう意味ではそれは非常に呑みなリズム的な発想なのだということに思い当たった。

おそらくは、これはノミナリズムもイデアリズムもそれぞれ妥当な場面があるということなのだと思う。人間の「種」性というか、「類的存在としての人間」が想定され、考えられるべき場面もあれば、個々別々の人間一人一人に寄り添っていかなければならない場面もある。どちらかだけの考えでやっていけるというものでもない。

しかしたとえば、小林秀雄の言う「美しい花がある、花の美しさというものはない」という表現も、よく考えてみたら実にノミナリズム的な表現なのだということに気がついた。ヨーロッパの普遍志向やアメリカのマニュアル志向に対して、日本はもともと強くノミナリズム的で、それは一神教と多神教というようなものとも関係しているのだろうと思う。一期一会の思想なども考えてみれば全くノミナリズムである。

なんかそんなことを考えたのだが、とりあえずそれ以上は展開できない。

***

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