親王殿下御誕生/絲山秋子『沖で待つ』/ハンナ・アーレントとか無神論とか

Posted at 06/09/06

昨日。午前中に家を出て、東京駅の丸善で絲山秋子『沖で待つ』(文藝春秋、2006)を買う。月曜日に高校時代からの友人と話していて「これは面白い」と勧められたのだった。収録されているのは「勤労感謝の日」と「沖で待つ」。「勤労感謝の日」は、最初は最近よく『文学界』で見るような文体だなと思いながら読みはじめたのだが、だんだんそういう文体を越えたようなものを感じてくる。それが何なのかはよくわからない。「面白うて、やがて悲しき」という王道のようなものをこの人は行っている。何の王道だろう。ペーソス、といえば子どものころ読んだいろいろな「子どもの失敗」を描いたマンガが思い浮かぶのだが、それはさらに遡れる。そうか、落語だ。落語とか、歌舞伎の世話物の世界。とても日本的な感じがしたのはその辺から来ているのかもしれない。

沖で待つ

文藝春秋

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新宿で特急に乗り込む。一応読もうと思って持って帰ったのは『沖で待つ』のほかにアルヴォン『無神論』と川崎修『アレント 公共性の復権』。それぞれ少しずつ読むが、無神論もハンナ・アーレントも大きな問題なのでなかなか気楽な気持ちでは読めない。結局『沖で待つ』を読みつづける。

「勤労感謝の日」で印象に残ったのはたとえば職安の描写。「マイナスのパワーに満ちた空気」の中で「私は渋谷で0101XXXX06という番号をつけられ「正当な理由のない自己都合退職者」と選別されている。事実、正当な理由などない。」といったくだり。この0101XXXX06という番号のリアリティを拾い上げているのが興味深い。クリスマスが大好きな新興住宅地の「上沼町」に対して「上沼町に原発を」という呪詛を投げつけるのも笑ってしまう。「とうの立った総合職の女」を「蚕蛾」に喩えるのはシルクを吐き出す労働を終えて自らは蛾になってしまうというもっと戯画化された「鶴の恩返し」というか変にリアルだ。

お見合いの席を途中で立ってしまったことが在職中、会議中に「こんな下らない会議やってられません!」と怒鳴って出て行った話につながり、「国連脱退の松岡洋右みたいでした、カッコよかったなあ」「いつの時代だよ、四十二対一かよ」というやり取りになるところが個人的に受けた。ラストに飲み屋のマスターが「頼みもしないのにカウンターから出てきて、立て付けの悪い鈍い銀色のサッシの扉を開けてくれた。」という優しさで落とすところが読み手の生理をよく把握している、と思った。

「沖で待つ」はもっと文体は大人しい。細部の描写がもっと生きていて、「径の違った7本セットの星型ドライバー」などというのはリアリティとファンタジーが上手くかみ合っている。「大事なことは明文化する、文書に残したらやばいことは口頭で喋れ、という原理原則」というのもこういうのがリアルなんだよなと思いつつ、そのリアルが生み出すハードボイルドなファンタジーというものもある、と思う。「ルミエール五反田」とか「202号」という言葉も、現代のリアルがどこにあるのかという拾い上げ方を感じるし、ことを成し遂げた主人公が「太っちゃん」の部屋の鍵をコンビニのトイレの、「太っちゃんがさんざんもめた、あの和便と同じセットのBBT14802Cのロータンクの底」に投げ入れるという強烈なリアリティに泣かされた。

彼女はやはり日常の細部にいる神を呼び出してくる日本的な文芸の呪術の正統的な継承者なのだと思う。そしてそれが現場の描写とともに非常に手際がよい。世の中に膨大に存在するこういう企業人こそが江戸時代の市井にいたような意味での「現代の職人」なのかもしれないと思う。彼女のほかの作品も読んでみようと思う。

相模湖のあたりで読み終わり、後は『アレント 公共性の復権』を少しずつ読む。ハイデッガーとヤスパースとの交流からパリへ、そしてアメリカへの亡命。アーレントが20世紀の社会思想史の上で非常に特異な位置を占める存在だということがよく理解できる。なかなかこっち方面の著作を読むのは骨が折れるし、だいたい以前アーレントを英文で読んだときに何を言っているのかさっぱり分からなかったことが思い出されたのだが、今なら読めそうな気もする。まず日本語だが。『全体主義の起源』はなるべく早めに読んだ方がよさそうだ。

現代思想冒険者たちSelect アレント 公共性の復権

講談社

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しかしなかなかぐんぐん読むという本でもないので『無神論』の方も少し読む。クセジュ文庫は今まで読んで収穫があったと感じることが少なかったのだが、この本は当たりであると思う。訳者の前書きの「わが国では、無神論が思想上の深刻な課題として受け止められたことはなかったといってもいいかもしれない。」という言葉に頷く。本章に入り、「完全な無神論はその頂点においては、完全な信仰にいたる直前の段階にある」というドストエフスキーの言葉に頷く。無神論が西欧世界においていかに深刻な問題を引き起こしているかということを改めて思う。

無神論

白水社

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宗教は(というかキリスト教は)『コンスタンティヌス的極』(宗教の国家制度化)と『黙示録的極』(千年至福説の約束)の間を動揺し、社会的解放の枷になることもあれば解放の支えになることもある。フランスのリベルタン(的無神論)は「堕落して飼いならされた貴族と発展の盛りにあるブルジョアジーとを同時に含んでいる」。無神論と社会的解放は必ずしも重なり合うとは限らない。マルクス主義的無神論にしても、結局はそうだろう。

歴史的無神論は自然科学の発展によりブルジョアジーの一元的イデオロギーによる封建的ヨーロッパの二元的イデオロギー(霊肉二元論ということだろう)の攻撃により始まったと分析されていて、こういう話の展開の仕方は私にはとてもわかりやすいし受け入れやすい。

ただ、「たましい」の問題に踏み込んでいないように見受けられるのはどうだろう。これはこれでまた別の問題と考えるべきか。すぐに理解しきれるものでもないし、もう少し考えなければと思う。

しかしいろいろ考えたり友人とキリスト教について論じるというより語り合ったりして思ったのだけど、私自身の感じ方考え方というのは別に特異なものではなくて、要するにいわゆる東洋的な諸思想やいわゆる東洋医学系の心身論の上に位置付けられているのだと言うことを今更ながら自覚した。そういう意味でいうと仏教はいわば無神論的な側面を持つし、たましいと同義といっていいかどうかはわからないが、事物は仏性を持つかという仏教教学上の大問題とも問題は重なってくる。「山川草木悉有仏性」というのが感覚的には真実だと私は思うが、その辺のところも理論化ではないにしても自分の言葉で語れるくらいには消化しておくべきだと思った。

結局のところ何をどう考えたっていいのだが、相手の語りの視線や流れにあまりとらわれすぎることなく、自分の感じた真実を言葉にしていかなければ生きている甲斐がないわけで、ただそのためには自分がどこにいるのかが見えていなければならない。そのあたりのところを少し見失っていたのかなという気がした。

夜の仕事は忙。秋からの仕事の準備もそれなりに進んだ。

今朝は寒いくらいだ。歯科医を受診し、図書館に行って絲山を借りようと思ったら整理期間中で閉館していた。仕方なく戻ってきた途中にいつも見るけど入ったことのない珈琲屋があり、ふと買ってみる気になってガテマラを200g買った。歩いて帰ってくるとかなり汗ばんでいる。季節の境目だ。コスモスがきれいだ。

***

秋篠宮妃殿下、親王殿下御出産との報。心から慶祝の意を表したい。さまざまなものが去来するが、日本というのはそのように出来ている国なんだろうなと思う。


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