無神論/子猫殺し/こうの史代

Posted at 06/08/27

ナチスの思想の最大の欠陥は、無神論だろう。神を恐れ、生命を畏れる思想があれば、数百万人のユダヤ人を虐殺するなどということは絶対におこるはずがない。スターリンの虐殺、毛沢東の無慈悲、ポルポトの虐殺も彼らがコミュニズムという無神論に基づかなければ起こりえなかった。

ナチスは徹底した科学主義であり、合理主義である。虐殺したユダヤ人の皮下脂肪から石鹸を作るなどという発想が出て来るのは、人間の体というものを物質としてしか見ていないからであり、最後にヒトラーがエヴァ・ブラウンと自殺して石油をかけて焼かせたということと思想としては通底している。ユダヤ人問題の最終的解決という彼らの発想は極めて合理的に遂行されているが、つまりはガス室というのが効率化の極致なのだろう。

同様に、無神論を肯定する傾向が強く徹底した科学主義・合理主義であるリベラリズムとナチスとの違いはなにか。それはもちろんデモクラシーとか人権思想を肯定するか否かというところにある。しかし生命倫理の問題など、科学主義・合理主義が人権思想を侵害する可能性がでてくるような局面を見ると、リベラリズムとナチスというのも実はそんなに遠くないところに存在するのではないかと思われる。だからこそあんなにまで偏執狂的にリベラリズムはナチスあるいはネオナチを排撃するのだろう。リベラルとコミュニズムが案外親和性が高いのも、アンビバレントではあるが似たところに原因があるのだろうと思う。20世紀はファシズムとコミュニズムの時代、「極端の時代」とホブズボームは描出したが、アメリカン・リベラリズムも含めてエクストリームズとするべきなのではないかという気はする。リベラリズムとナチスはネガとポジの関係なのだと思う。核兵器がアメリカで、化学兵器がドイツで開発されたのは偶然ではないだろう。

小林よしのりがアメリカを左翼国家と分類するのはそういう観点に立ってのことなのだが、私などはよく腑に落ちるその議論をなぜ多くの人が支持しないのか疑問に思っていたのだが、何だそうだったのかと最近自分の認識不足に苦笑している。相当な度合いで、日本はすでにアメリカン・リベラリズムに侵食されていたのだ。諸星大二郎『地獄の戦士』のラストシーンのような感慨である。

地獄の戦士

集英社

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まあそういう観点から言えば清沢冽ではないが『暗黒日記』くらいしか書くことはないのかもしれないが、リベラルの侵食というのは都市の若年エリート層が中心であって、昔で言えば左翼の浸透した階層とそんなには違わないような気もする。まだまだ日本は、あるいは世界は大丈夫だと信じたいが、さてどうか。なんとなく自分の中で小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』のなかの童貞青年たちの増殖がイメージされている。

ゼウスガーデン衰亡史

角川春樹事務所

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昨日は土曜日にありがちな体調の悪さであまり動けなかったのだが、肉体よりも精神に意識を集中して動かしてみると案外動かないこともない。本当に疲れていると意識は雲散霧消して、というか体の各地にいろいろな形で分散する印象になる。それが徐々に統合されていくイメージが起床のときにはある。

こうの史代『夕凪の街・桜の国』を何度も読み返す。読み返せば読み返すほど彼女の漫画表現のさまざまな実験的な試みが、非常に折り目正しく絵の中に反映されている、そのテクニックに驚かざるを得ない。正岡子規は「一行を読めば一行に驚き、一回を読めば一回に驚きぬ。一葉何者ぞ」と樋口一葉を評しているが、そんな驚きを持った。これは高三から大学の初年に高野文子をバイブルのように読んでいたころの印象に重なる。全面降伏イエスである。

夕凪の街桜の国

双葉社

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で、どういうわけか近藤ようこ『見晴らしガ丘にて』(ちくま文庫、1994)が読みたくなって読み返す。この短篇集の中では「見晴らしガ丘にて」と「なつめ屋主人」が好きだ。女性から見た恋愛や男女関係というのが自分にはよくわからないから読むのが面白いということはあるのだが、自分にとって本当に面白い作品というのは文学性、言葉を替えて言えばある種の偏りがあるものだから、これらの作品を読むことによって女性が理解できるとは全然思えない。何がしかはあるかもしれないが、生兵法は大怪我のもとみたいなところである。

見晴らしガ丘にて

筑摩書房

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三島の『金閣寺』をさらに読む。第7章に入った。『金閣寺』は名作だといわれているが、それだけのことはある。題材と作者の資質、そしてそのときの作者の年齢とがこれだけ幸福な化合をした作品もないかもしれないと思う。一期一会というか。

金閣寺

新潮社

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作中で金閣寺の老師が敗戦の日に寺中の者に講話をする。その内容は有名な「南泉斬猫」の公案についてである。

余談だが、坂東眞砂子というタヒチ在住の直木賞作家が子猫殺しについてのエッセイを書いたという話を読んだとき、わたしはこの「南泉斬猫」の公案を思い出してなにか深遠な動機でそんなことをしたのかと思ったのだが、なんだかよくわからない話だった。引用元はほかに全文引用のところが見つからなかったので「きっこのブログ」だが、まあきっこ氏の言うことは表現はきついが一般的な感想だろう。避妊手術をあえて避け、生まれた子猫を殺すという選択もよくわからないし、それについてさらに非難されることを覚悟でエッセイに書くというのはもっとよくわからない。生物にとって「産む」ということが大事だからそれはさせるが「育てる」ことはしない、させないというその取捨選択の根拠はおそらく坂東氏の文学的な何かがそれをさせているのだろうと思うが、それを同人誌ではなく日経に載せる必要があるのかどうかちょっとよくわからない。

「南泉斬猫」はもっとある意味人間本位の話なのだが、子猫をめぐって寺中が争っているのを見た老師・南泉が子猫を斬って捨てる。そのあとで高弟の趙州が帰ってきてその事を話すと、趙州は頭に履(くつ)を載せて出て行った。それをみた南泉が「今日お前がいたら、あの子猫も助かったのに」と言った、と言う話である。

この話、すなわち公案をどう解釈するかと言うのは古来難問とされているのだが、この終戦の日の老師がある解釈を下し、のちに出会った柏木と言う悪友がまたこの公案について耽美的な解釈を下す。また柏木の解釈はこれも有名な「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、…父母に逢うては父母を殺し、…始めて解脱を得ん」という公案との関連からでてくる。こういう禅の公案、あるいは公案集については一時よく読んだので私も『無門関』や『臨済録』を読み直してみたのだが、こういうものをテーマにして小説が書けるということに新鮮な驚きを感じた。というか、禅の公案というもの自体がある意味非常に文学的に考えることが出来るということは発見だった。解釈が気になる方は『金閣寺』を参照されたい。

無門関

岩波書店

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臨済録

岩波書店

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夕方になってから丸の内の丸善に出かける。こうの史代のほかの作品を読みたいと思って出かけたのだが、塩野七生『ローマ人の物語』24~26巻(新潮文庫、2006)が出ているのを見つけてその場で買った。

ローマ人の物語 24 (24)

新潮社

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話しはトラヤヌス帝、すなわち五賢帝時代なのだが、この時期はタキトゥスらの同時代の記録が欠けているので書くのが大変だ、という話から始まっていて、そうだったのかと思う。私の印象のトラヤヌス帝は「ローマの最大版図」を実現した「初の属州出身の皇帝」で、ネルヴァの養子指名による「養子相続時代」=五賢帝時代の最良の時代を作り上げたという世界史の常識以外には小プリニウスが『書簡集』に書いている彼らの書簡のやり取りに出てくるトラヤヌス帝の短く的確なコメントくらいしかない。まだ24巻の最初の70ページしか読んでいないが、塩野の統治者論が展開されていて面白い。結局こういうものを面白がる人が塩野の読者なのだなと改めて認識する。

プリニウス書簡集―ローマ帝国一貴紳の生活と信条

講談社

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こうの史代は何冊かあったが、結局「どれにしようかなそれは神様の言う通り」で、『長い道』(双葉社、2005)を買った。これは読了。なんというか、ストレートに幸せな夫婦というものを描く人ではないのだが、ある意味幸せな夫婦でもある。まあなんというかその偏りがこうのという作家なんだなあと思う。絵のテンポ、台詞のテンポが絶妙なのだが、あまりに折り目正しくまた独自の感性を持っているために、かえって雑誌などでは使いにくい作家なのだろうなあと思わざるを得ない。『夕凪の町・桜の国』のような重いテーマを扱う方が、かえって彼女の力を浮き彫りにするというのは実際、並みの作家ではないと思う。小林よしのりが「反戦漫画でもいいから描いてくれ!」とまで言って『わしズム』に漫画を載せたがったというのもよくわかる。商業主義とは全く無縁のところに生まれた鬼才なのである。

長い道

双葉社

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夜『世界ふしぎ発見』を見るかどうか迷っていたのだが、「ボイブンバ」というアマゾンのお祭りをやっていて、これがかなり面白かったのでみてしまった。青森のねぶたと札幌の雪祭りとリオのカーニバルを合わせたものというか、これは相当面白いし盛り上がるだろうな。

人はなぜ歴史を学びたいと思うのだろう。私のことを考えていたら、それは混沌でしかない世界を認識によって秩序づけることが出来るからだ、ということに気がついた。これは小学校に入る前のころからずっと同じだったと思う。今でも世界はある意味混沌でしかないが、私が思う歴史が秩序付けることによってわたしの中では世界はそれなりに生きることが可能なものとして認識されているのだと思う。

岡田英弘氏が「歴史の本質は認識だ」、と言っていたが、その意味は何重にも味わうことが出来る。

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