精神と肉体が別のものだと考えること/世界に罰せられているということ

Posted at 06/08/26

昨日帰京。午後から夜にかけての仕事は忙しく、すべてをこなしきれなかったが、こういうのも久しぶりだ。特急の中では久しぶりに週刊文春を買って読む。午前中に再度歯科医の検診を受け、歯磨きの指導を受ける。何回も受けているのだが、結局いい加減になってしまう。自分の歯は、思ったよりがたがたになっているらしい。強くしっかりした咀嚼機構を持つということの幸せをもう一度思う。

大月を過ぎたあたりから、またアンジェラ・アキの「Home」を聞き始めた。昨日はなにか余り音楽の世界に入って行かない感じがした。ここのところ、音楽の世界の中に住む感じになって、そこでまどろんでしまう、つまりは「癒されている」感じになっていたのだけど、昨日は癒しというよりも、隣で歌を聞いているような、親しみはあるが一体化はしていない、そんな感じで聞いていた。

Home (通常盤)
アンジェラ・アキ
ERJ

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仕事をしているときから、ここにある肉体とは別に、精神というか霊というか、あるいは魂といってもいいのだけど、そういうものが自分の肉体の中に別にある感じがしだした。霊肉二元論とよく言うが、私は肉体と精神が別のものであると感じたことは少なくとも自覚的にはなかったと思うのだが、肉体という外殻のうちに精神という目に見えない存在が別にあるという感じがしだした。今までは多分、肉体の大きさと精神の大きさが全く一致していて、肉体=精神であり、肉体に現れるもの=精神の反映と当然のように見做していたのだが、初めてそうでもないのかなという感覚を味わいながら仕事をしていた。肉体と精神は一体であって分離できない「身体」としての存在であるという身体論を、自分は実感としてそのほかの感じ方は出来なかったのだけど、なぜだか初めて違うものとして認識した。

おそらくそう言うものがなければ一般的には本当の意味での宗教的な体験というのは出来ないのだろうと思う。肉体と精神が別のものでなければ、肉体の美しさに気を使い、装うことは出来ても、精神の美しさを考えようとは思わない、と思う。精神が実在として存在するということを認識してこそ、精神の美しさを磨こうという気になるのではないか。そういうのが解脱ということなのかもしれないが、今までそういうことを感じたことも考えたこともなかった。精神の美しさというものに、あまりに無頓着であったと思う。

まあそれはそれとして、精神と肉体が別のものと考えると、いろいろなことが楽になる気がする。肉体についてあまりいろいろと思い悩まなくて済むからだ。それはこの年になって肉体のさまざまな衰えを実感する中で一つの解決として無意識のうちに選択した考え方なのかもしれない。そしておそらくは、もっと若いうちに肉体をいろいろな形で酷使することによって肉体の限界を知っている人たちになら、もっと容易に到達できる認識なのだと思う。極端な話、子供のころから生きるのに困難な状況の中でそれと戦いつつ生きるか死ぬかの生き方をしていたほとんどのわれわれの祖先たちにとっては、当たり前の認識だったのかもしれないと思う。「たましいはあるに決まっているじゃないですか」と小林秀雄は言っていたが、本当にはその言葉の意味をわかっていなかったなと思う。靖国の英霊に関しても、何かを感じてはいてもそれが本当に理解していたかというとやはり必ずしもそうではない。

昨日は朝生でナショナリズムを議論していたようだが、メンバーを見て見るのをやめた。保守派を代表する形になっているのが最近どこにでも出てきてアングロサクソン従属史観の宣教師となっている岡崎久彦ではいつもと同じ見解が繰り返されるだけで収穫はない。彼は「つくる会」の教科書から「反米的な記述」を一切削除し、それを誇っていた。最近では靖国神社の遊就館の展示の記述の反米的な部分に難癖をつけ、それを「訂正」させることに成功したらしい。「小泉―安倍」的な外交路線を単純な親米と解釈する風潮が彼に力を持たせているのだと思うが、小泉にしろ安倍にしろそんなに単純なものとは思えない。

しかし岡崎の難癖に靖国神社側が応じたというのはおそらくは何らかの戦略があるのだろう。英霊を祭る靖国神社が大東亜戦争の正当性を主張し極東軍事裁判の不当性を主張するのは一環性があるが、その中の米国非難を別の形にすることによって米側にもそれを許容させやすくさせようということなのだろう。それはアーミテージの靖国神社への論及と呼応するものだと思われるから、ある程度のアメリカ側の同意が既に取り付けられているのかもしれない。勢力均衡論的な思考から言えば中国共産党政府の存在はステータス・クォと考えざるを得ないけれども、単独行動主義的な考えから言えばそれは最終的には滅ぼされるべき存在である。そのあたりの方向性に乗っかって中国やロシアの弱体化に成功したあと、アメリカの寛容を引き出して第二次世界大戦の再評価を行いたいと思っているのかもしれない。第二次世界大戦において中国やソ連と組んだことは失敗だったと考える人々はアメリカにも必ずいるはずなので、その線での再評価というのはありえないことではないかもしれないとは思う。

しかし、日本人は基本的にアメリカという国に対してはアンヴィヴァレントな感情を持っているわけで、いかにしても日本を焦土とし、大量破壊兵器を実験的に二つ投下させて何十万人もの命を奪った国であるという事実が消えることは永遠にない。むしろ心の奥底で、アメリカをこそ「戦争犯罪国」であるという感情を持つ人々は少なくないと思う。岡崎の戦略はそれを軽減し麻痺させることによって成立するものだが、そのいかがわしさもまたそこにあることを醒めた目で見ている人はいるだろう。

最近人として理解しあうことの不可能性を思い知らされるような議論をしたせいか、なんだか心が弱くなっているようなところがあったのかもしれないが、そういうときに読みたくなることが多いのがダンテの『神曲』だ。一つには冥王星が惑星から外されるという議論の展開で海王星以遠天体についてちょっとwikipediaなどでしらべて、プルートーやらカロンやら「地獄」「冥界」関連の名前を思い出したこともあるかもしれない。ギュスターブ・ドレが銅版画で描いた『神曲』では地獄の渡し守・カロンは圧倒的な存在である。カロンといえばあのイメージしか浮かばない。私は心がくさくさしたりじめじめしたりするときにはドレの版画集かそれを漫画化した永井豪の『神曲』を読むと、不思議に気持ちが楽になることが多い。

神曲

アルケミア

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昨日もそれを読もうと思ったのだが、ちょっと考えを変えてこうの史代『夕凪の街・桜の国』を読み返した。

夕凪の街桜の国

双葉社

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最初読んだときはそうでもなかったのだが、昨日読み返すとどうも泣ける箇所が多くて困った。表現の鋭さに最初は目を奪われていたのだが、その表現の根拠となるたましいの深さのようなものがとても感じられたからだろう。親戚のうちに疎開して被爆を免れた旭が、結局胎児のときに被爆して「とろい」といわれた京子と結婚するくだりで、旭の母が「あんた被爆者と結婚する気ね?」「母さん…」「何のために疎開さして養子に出したんね? 石川のご両親にどう言うたらええんね? 何でうちは死ねんのかね うちはもう知った人が原爆で死ぬんは見とうないよ……」という直球の表現にぶつかると、涙が止まらなくなる。そしてその答えが旭と京子の娘である七波が「そして確かにこのふたりを選んで生まれてこようと決めたのだ」言うことによって結ばれる。これを読むときに溢れる涙はどう説明していいのかよくはわからない。

『夕凪の町』の前半の主人公である皆実は昭和30年に原爆症で死ぬのだが、打越という同僚に求婚された直後であった。打越の優しさに触れ、橋のたもとで口付けしようとしたとき、原爆の日の悪夢がいきなり蘇る。「わかっているのは『死ねばいい』と誰かに思われたということ 思われたのに生き延びているということ」。誰かが「死ねばいい」と思って投下した原爆によって自分もまた10年後に死のうとしている。「嬉しい? 十年たったけど 原爆を落とした人はわたしを見て『やった!またひとり殺せた』とちゃんと思うてくれとる?」皆実にとって、それは「原爆を落とした人」の義務であるべきなのだ。

皆実にとって、原爆の風景のフラッシュバックは「世界」から自分に与えられた罰である。そして被爆という罰を与えられたあとにさまざまな「罪」を重ねざるを得なかったことを恐れている。罰と罪との倒錯した関係。

世界から罰せられる、というこの場面を読みながらこれはどこかで読んだことがあるような気がした。柳生連也斎が放浪の果てに一人の女性と結ばれようとしたとき、いきなりその脳裏に彼の叔父、柳生十兵衛の到達した孤高の境地の情景が浮かび上がる。連也斎はその場を去り、一生女犯とは無縁の修行を続ける。彼もまた世界に罰せられた人間である。

朝起きてから三島由紀夫『金閣寺』を読み進める。第5章の終わりで、柏木の世話した下宿の娘とそういう行為に及ぼうとしたときのこと。「そのとき金閣が現れたのである。/威厳に満ちた、憂鬱な繊細な建築。はげた金箔をそこかしこに残した豪奢の亡骸のような建築。近いと思えば遠く、親しくもあり隔たってもいる不可解な距離に、いつも澄明に浮かんでいるあの金閣が現れたのである。」


金閣寺

新潮社

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この主人公も、「金閣」という美、「金閣」という世界に罰せられている。ここで三島の文学的思考が優れていると思ったのは、「わたしはむしろ目の前の娘を、欲望の対象として考えることから遁れようとしていた。これを人生と考えるべきなのだ。前進し獲得するための一つの関門と考えるべきなのだ。今の機を逸したら、永遠に人生はわたしを訪れぬだろう。」というところで、世界に対峙するものとして「人生」を提示しているところである。「世界」に罰せられている、罰を受けている主体は「人生」なのだ。そう考えると何もかも納得がいくし、私自身の罰せられ方も理解できるように思った。

愛とか結婚とか欲望とかの場面で語られているように、人生というのは肉体的なものの象徴だろう。人は世界のことなど考えなくても生きていける。ただ世界と人生が無関係ではないだけのことだ。しかしある種の人間にとって、世界を自分の存在から切り離すことが出来なくなってしまうことが起こるわけで、それが罰に他ならない。こういう場面になぜわたしが引かれるのかよくわからなかったが、結局は同じような罰を自分も受けているからなのだろうと思うに至った。

結局自分の人生を語ろうとしても人生を通して世界を語ってしまうことなどある種の病気に他ならないのだと思う。考えてみれば常にそういう書き方しかしていないわけで、結局何かの運命というか宿命としか考えられない。

突然蝉時雨が聞こえる。マンションの十階、それも向かい合うマンションとの間の駐車場で、一体どんな蝉が鳴いているのだろう。

とりあえず思考は中断した。一度鳴きやんでいた蝉がまた鳴きはじめた。

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by Luke Peterson

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