幻の革命の制度化としての戦後民主主義/丸山真男『日本の思想』

Posted at 06/07/27

昨日は後片付けをいろいろやったりもしたが、大体福田歓一『近代の政治思想』を読んでいた。午後から夜の仕事はまあまあ忙しくなってきていて、結構いいかもしれない。

『近代の政治思想』読了。ルソーの部分を読んだが、今までルソーの思想でよくわからなかった部分が少し結びついたような気がする。この本を読んで最も強く思ったのは、福田の考えは必ずしも賛成できない部分が多いのだが、しかし自分のまわりの多くの人々が実に福田の考え、あるいは福田に代表される思想、つまりそれがいわゆる「戦後民主主義」というものだと思うのだが、に強い影響を受けていて、世界認識の仕方から行動パターンまで、こういう思想に基づいてそれが血肉化して動いているのだということだ。それはある意味面白いことなのだが、深刻なことでもある。

近代の政治思想―その現実的・理論的諸前提

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福田の思想は簡単に言えば「自然状態」において権力を捨象して考えることによって、権力という非人間的に見えるものが生身の一人一人の人間によって担われているということを過度に強調している。エンタープライズの乗組員に呼びかけた小田実や反戦デモ鎮圧の兵士に花を差し出した女を称揚しているのはある意味笑ってしまうが、つまりそこには「同じ人間だ、話せばわかる」という思想が貫徹しているわけである。最終的に人間的に一人一人に対する議論に持ち込まなければ相手の思想や行動を変えることが出来ないことなど当然だが、それに過度な期待をかけるのもやはりナイーブだというべきだろう。そしてその「話せばわかる」人間観が持つ弊害というものに、多くの戦後民主主義者は無頓着だ。その態度もまた一つの傲慢であるということを自覚していればいいのだが、なかなかそうは行かない。

また近代国家を「革命の制度化」と規定し、そうした国家においては「憲法という機構をそれ自体信仰の対象にしようとする努力」が行われている、と書いているのは先日読んだ大塚秀志の発言を思い出した。この表現自体はおそらく、社会主義国において社会主義国家体制自体を「信仰の対象」にしたりアメリカにおいてアメリカ民主主義を「信仰の対象」にしたりすることを指しているのだろう。だから日本においても権力者は日本国憲法を「信仰の対象」にして当然だ、という含みがあるのだが、馬鹿げている。

福田も言っているように、憲法は革命を制度化したものであるわけだから、革命を担った主体がその憲法の制度化を図るのはある意味当然で、名誉革命を担った国教会勢力が「権利の章典」を聖典化しようとしたり、独立革命を成し遂げた勢力が合衆国憲法を聖典化しようとするのは当然である。しかし、日本国憲法にはあまりに「出生の事情」がありすぎるわけで、事実においてGHQに押し付けられたものであることを否定する人はいないだろう。それを「帝国議会」が「明治憲法」の規定に基づいて可決したことによって「発効」したわけだが、芦田修正をはじめ数々の修正が加えられたとは言え、それが「敗者の抵抗」であったことは明らかだ。日本国憲法は日本の権力機構が勝者に「飲まされた」ものであって自らが希望に燃えて作り上げた国家体制に対して作り上げる主体になった勢力は存在しない。その主体になった勢力こそが憲法を維持する原動力になるはずなのだが、日本にはそういう勢力は存在しないわけである。草案を作成したのがアメリカの若い兵隊たちなのであるから。

憲法が革命の制度化であるならば、革命を担った勢力とそれを継承しようとする勢力が護憲勢力なのである。そのあたりは明治憲法においてもややねじれた関係になっていたが、日本国憲法においてはそのねじれは回復不可能なほど大きい。何しろ憲法作成を担った勢力が外国人なのだから。しかし、一般にはその憲法に実際熱狂的に賛同した人びとも一定数はいたわけで、現在の「護憲」勢力はそういう人びとの末裔だろう。つまり憲法作成に主体的に関わった記憶がないままあたえられたものを「良いものは良い」と受け入れた人々である。しかしこのような不完全な主体性で、憲法及びそれが表現したとされている幻の「革命」を継承することが出来るとは思えない。ありえるのは、「憲法」及び「革命」をひたすら「信仰する」ことによって守ろうとすることだけだろう。そして戦後の歴史はその不自然な形を再生産しつづけた歴史だとも言える。

福田の主張に同意は出来ないが、そういう意味で、日本が現在に至る迄なぜかくも深き思想的分裂・混迷状況に陥っているのか、それを探る手がかりとしては非常に面白い一冊であった。しかし今だからそう思うが、20歳前に読んでいても何がなんだかわからなかったのはあたりまえだなあという気がする。

***

読み終わったので丸山真男『日本の思想』を読み始める。最初にあとがきを読んでこの本が書かれた状況を知らないとこれらの文章が何を言おうとしているのか分からない。今のところ、その「あとがき」と表題論文「Ⅰ 日本の思想」の「はじめに」を読んだだけなのだが、はっきり言って面白い。現代の凡百の論者の議論に比べて、丸山のシャープな自然や問題の指摘の仕方などは、読んでいて感心するところがある。後年の丸山の文章を新聞などで読んだことがあるけれども、その時には何が言いたいのか分からない退屈な文章だった気がする(自分が力不足だったという理由は大いにある)が、この文章は手ごわいけれども読みがいがある。それは、この論文が書かれた1957年という時期にも関係あるのだろう。この時期には、保守傾向の強い文壇・論壇と戦後民主主義論壇とが共通の土俵を持ち、議論することが可能だったのだと思う。現在では蛸壺的に(笑)それぞれの論壇誌に閉じこもり、聞くに堪えない悪口雑言をぶつけ合うばかりで全く生産的でないのだが、日本が「国際社会に復帰」してから「六〇年安保」を迎えるまでの短い間、鳩山・石橋・岸政権初期の時期は、硬直化しない自由な議論が可能だったのではないかなと思った。丸山が小林秀雄の文章に論及している内容について真剣に弁解しているところを読むと、そういう意味ではいい時代だったのだなと思わずにはいられない。

私は丸山にももちろん賛同は出来ないだろうと思うが、凡百の思想家とは違い、ぶつかりがいのある(と言っても著書を読むだけだが)存在だということは強く感じた。

日本の思想

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